night
day

ホーム文法庭三郎


「23.テンス」へ 

主要目次へ

補説§23

 §23.1 「た」について §23.2 テンスのつながり 

§23.1 「た」について

 以下は、私の思いつきに過ぎませんが、どこかに書いておきたくなったので、ここに 書いてしまいます。  日本語の「(V−)た」は「過去」を表すとされています。これには山田孝雄以来、 いろいろと議論があったようですが、現在は基本的に「過去」を表すということで、ほ ぼ落ち着いているように思います。それ以外に、「完了」というアスペクトを表すかど うかは、また別の問題として。  私も、基本的にはそれでいいと思いますが、「時制」という考え方、物理学的時間の とらえ方に、言語の表現を当てはめるという考え方そのものに、多少疑問を持っていま す。  もちろん、物理学的な「過去−現在−未来」という時間の流れにそのまま対応した形 で日本語のテンスが考えられているわけではありません。「未来」は日本語のテンスと しては独立した形式を持っていないということは、広く認められています。日本語にあ るのは、「過去」対「非過去」、あるいは「過去形:シタ」対「現在未来形:スル」の 対立だとされます。  しかし、私は、それでいいのだろうか、という疑問を持っています。「た」は過去な のだろうか、と。「た」を過去とする論は、「現在」を非常に狭く考えすぎていると思 います。  現在というものを「発話時」、発話の瞬間としてとらえ、動きの動詞「立つ」は発話 の瞬間にはその動きの全体をとらえられないので、そのままでは現在を表せない、現在 を表すには、継続の表現「立っている」という形にする、というのがふつうの考え方に なっています。そして「立った」は現在とは切り離された過去のことを表す、と。 (ここで、「現在と切り離されていない」過去の事柄の表現が「完了」とされるのです が、そのことはここでは問題としません。)  私は、「現在」というものをもっと広くとらえていいのではないかと思います。発話 の場というものが成り立つ時間というものは、もう少し幅のあるものではないか。人が ある動きを認識し、それを言語化しようというとき、その意識の動きには多少の時間が 必要なのではないかと思います。  つまり、どういうことかというと、たとえば、赤ん坊が立ったとき、親が「あ、立っ た!」という、この「た」は、発話の場の中での、事柄(事態)の実現を表すだけで、 「過去」のこととして表しているのではない、と考えます。「今、起こった」ことを表 すのは、「過去」ではない、と。  「あー、疲れた」も、「おや、雨が降ってきた」も、「やっとできた」も、みな「過 去」ではない、と。  では、これらの「た」は何を表すとするか。「発話の場における実現」を表す、とで もしておきます。実現していないことは、これからのこととして「スル」で表し、実現 を認識したものは「シタ」で表す。  それが、時間の流れの中で、発話の場から離れたものと意識され、「現在から振り返 って」頭の中に思い起こされるようになったとき、「過去」になるのだと考えます。  「さっき、雨が降ってきた」は過去の表現になります。  人は、現在に生きています。その中でのさまざまな認識・感情・思考などを、言語化 して、伝達を行うのです。  その時、言語が用意している動詞の基本的な形、日本語では「スル」と「シタ」です が、それらの基本的な形が目の前の現象を表すのに使われないと考えるのは、何か方向 を間違えた考え方なのだと思います。    人が、何かを見て、何かを感じて、何かを考えて、発することば、    「あれ、何かあるね。」      (ちょっと、来て!)「うん、行く。」    「さて、そろそろ始めるか。」    「あーあ、疲れたね。」    「あ、バスが来た。」    「ん、いいこと考えた。」  これらはみな、「発話の場の中の事態を表すことば」です。これらの動作の時を、発 話時との前後関係を考えて、「現在・未来・過去」などと決めていくことに意義がある とは思えません。  仮に名付けをするとすれば、上の例は、たとえば「発話時の状態」「未実現の動き」 「実現した動き」とでもなるのでしょう。未来でもなく、過去でもありません。  「(来て。)うん、今行くよ。」の「行く」は、「現在と切り離された未来」に行わ れる動作ではありません。「来て。」は現在の依頼で、その動作の内容は現在から離れ たものではありません。それに対する答えの「行く。」も、現在を離れた未来の動作で はありません。(もちろん、「明日来て。」「うん、行く。」は未来の動きです。)  動詞の現在未来形が「発話時現在」を表せるかどうかのテストをする場合に、文が表 す内容の「時」を限定するための副詞として「今」を使うと、発話時のすぐあとの動 き、つまり未来時の動きとして文が成立してしまうので、「今」は使えません。そのた め、「今現在/現在」などの日常使われない副詞をわざわざ使うということがあります。    今、ここにいる。  (状態動詞は現在を表せる)    今、本を読む。   (発話時現在の動作としては不可)   ×今現在、本を読む。    今現在、本を読んでいる。    今現在、ここにいる。  副詞の「今」は、過去・現在・未来のすべてのことに使える、と言われます。    今、やった。    今、やっている。    今、やる。  しかし、逆に言えば、「今」というこの言葉の使い方が、人間の「発話の時」に対す る意識を表しているのだと考えることもできます。つまり、私のこれまで書いてきた考 え方に立てば、これらはすべて「発話の場」の中の動きを表そうとしている表現で、だ からそのすべてに「今」を使おうとするのだ、ということになります。  もう一つ、上の「現在」が「現在形」と共に使えるか、というテストに疑問がありま す。それは、「現在」はテイル形や状態動詞と使えるだけでなく、過去形とも使えるの ではないか、ということです。    現在、円は100円まで上がりました。  netで、「現在*ました」のような検索をやってみると、それほど数は多くありません が、「現在」が過去の述語と共に使われていることがわかります。  これも、私の考えによれば、「現在」という言葉がある広がりを持ち、その中には 「過去形」で現されるような事柄も含みうるのだ、という証拠になるのだろうと思います。 (つづく)

§23.2 テンスのつながり  

 談話(文章)の中で、テンスを表す形式がどう使われるのかは難しい問題です。  これは、談話文法と呼ばれる分野の問題で、この「概説」では第4部の「連文」で 扱う事柄ですが、あちらでは適切な場所を作っていないので、とりあえずここにのせ ておくことにします。  「日本語オンライン」の質問に出された文章を使って考えます。  テンスだけでなく、談話のまとまり、つながりを作っていくさまざまな問題を考えます。 『新編日語教程』第3冊24ページ 文脈:花見のことを振り返って、、、(王さんの日記)  新学期が始まって、新しいクラスが発表されました。運よく、日本語能力試験3級に合格した私 は新中級クラスに入ることができました。クラスメートはキムさんや陳さんをはじめ、顔馴染み のお友達も大勢います。そして、今年もまた田中先生のご指導のもとで、日本語を勉強すること になりました。  1週間延びた『お花見』も楽しかったです。イギリスへ帰国したダニエルさんはもちろんいませ ん。とても寂しいですが、その代わりに新しいお友達が加わりました。スリランカのマノリさん です。彼女は母国で演劇を学んでいたそうです。桜の木の下で彼女が見せてくれたダンスは素晴 らしかったです。  『お花見』が終わったら、春休みの復習の状況をチェックする確認テストがあります、、、、 ▽分析の試み  09.11.8  この文章の性質   日記としては、丁寧体であるのが不自然だという指摘   普通体が書けない学習者の練習として、そして人に見せて直してもらうものとして   考えればよい   その他の点では、日記として適当な内容・書き方か   この記述の日(発話時)がはっきりしない   「新学期開始」「新クラス発表」「花見」と発話時の時間関係は?    日記ならば、「発表」の日の夜に書いたことになる   最後の「お花見」の文が不自然  発表の日に花見?  (1)新学期が始まって、新しいクラスが発表されました。  新しい談話の始まり  事実の報告(「日記」だから「報告」でなく「記述」?)  「新学期が始まった」こと、「新しいクラスが発表された」ことを「て」で接続  自然な継起関係 どちらも無題文(現象文)で主格はどちらも「が」  「た」は発話時以前のある時点での事柄の実現を表す いわゆる過去の「た」 従属節の「始まって」は主節の時に合わせて「始まった」と解釈   (2)運よく、日本語能力試験3級に合格した私は新中級クラスに入ることができました。  「私は新中級クラスに入ることができた」  「私は」主題の導入  「私」は話し手として常に談話の主題になりうる  「新中級クラス」は(1)の「新しいクラス」に関連  「日本語能力試験3級に合格した私」は非制限連体修飾節 「私」への付加情報  「合格」が、意味内容の関連から「新中級クラスに入ることができた」原因と解釈される  連体節「合格した」の時は主節の時より以前  「できた」は発話時以前のある時点での事柄の実現を表す   「できた」は「可能の過去」ではなく、ある事態の実現を表す用法  (1)の「発表された」内容によって「できた」ことを知ったことが含意されている  (1)の「新しいクラスの発表」という事実を受け、そこでの「私の新中級クラスへの所属」   という、話し手にとって重要な事実を述べる   (3)クラスメートはキムさんや陳さんをはじめ、顔馴染みのお友達も大勢います。  「クラスメート」は(2)の「新中級クラス」の関連語   「(新中級クラスの私の)クラスメート」 話し手の関連語として主題になる  「新中級クラス」に関する情報を「クラスメート」を主題として報告   しかし、この情報は「新クラス発表」でわかったことか?   「います」は(1)の「発表」の時に叙述の時を合わせて、その「現在」を示す (4)そして、今年もまた田中先生のご指導のもとで、日本語を勉強することになりました。  主題省略 (2)の主題「私は」を受ける  (なぜ(3)の「クラスメートは」でないか)  「私」が日本語の学生であること、「去年勉強したこと」はこの文章の前提知識  「そして」が多少不自然   これは何を受け継ぎ、何に関連付けているか  「クラスメート」の話から「担任教師」の話への移行  あるいは、担任ではないにせよ、「顔馴染み」を受けた「よく知った教師」という含意  「なりました」は、「新クラス発表」の際に、担任もわかったということか  (つづく)
「23.テンス」へ 

主要目次へ