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§00 まえがきへの補説

   §00.1「日本語」について      「日本語学習者」について  言語の数え方について    
§00.2 いくつかの文法学説について      学校文法について      Hebi no Asi 文法研究の用語のゆれ、など    §00.3「文法研究」の考え方    §00.4 寺村秀夫から    §00.5 文法を書くということ    §00.6 概説を書き始めた頃考えていたこと    §00.7 三上章抄    §00.8 三上章と寺村秀夫

§0-1「日本語」について

 この文法は、「現代日本語文法概説」という名前にしましたが、この「現代 日本語」というのは何を指すのかということについて一言。  一般に「日本語」というと、何のことわりもなく、東京方言を指すことが多 いのですが、それは現在の「共通語」あるいは「標準語」として東京方言が使 われているというだけのことで、多少なりとも言語学的な視点をもって書かれ るべき本では、「日本語の文法」として、東京のことばだけを対象にして、何 ら不思議に思わないのは正しくないというべきでしょう。岩手のことばも、沖 縄のことばも、共に「日本語」であることは誰も否定できないでしょうから。  むろん、実際には、すべての方言を同等に記述することは、このような本で は無理ですし、東京方言を記述するのは、「前書き」にも書いたとおり、いち おう理由があるのですが、そこで、ほんの少しでもそのことを振り返って考え 直してみることが必要だと思います。すべてを東京中心に考えてしまわないた めに。 これは、ただ便利だから、という理由で英語を世界共通語とすればいいと考 えたり、「外国語」として学ぶことばが英語にばかり偏ってしまったりするこ とと共通した考え方がその底にあります。  言語は、それぞれの地方で独自の文化と共に育ってきた大切なもので、かん たんに取り換えたり、捨ててしまったりできないものです。強いもの、中心的 なものを選び取って、効率を重視して済む問題ではないのです。では、方言や 「世界共通語」の問題をどうすればいいのか、というのは、かんたんに答えの 出ることではありませんが。 参考文献  イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店 1996  田中克彦『ことばと国家』岩波新書 1981  安田敏明『「国語」の近代史』中公新書 2007  津田幸夫編著『英語支配への異論』第三書館 1993
◇「日本語学習者」という言い方について
 一般には、「日本語を話す日本人」と「日本語が(もともとは)話せない外国 人」という言い方をし、「日本語を勉強する」人は当然「外国人」、と考える 人が多いのだろうと思いますが、「(外国語としての)日本語学習者」と「外国 人」とは、厳密には重なりません。  まず思い浮かぶのは、「在日外国人」特に日本で生まれ育った「外国人」です。 韓国・朝鮮系の人がいちばん多く、数十万人いるのですが、その人々は、日本 語の「ネイティブ・スピーカー」です。彼らの多くは日本人と同じ小学校に通い、 「国語」という授業を受けます。大学入試も、「外国人留学生」のための試験で はなく、日本人と同じ試験を受けます。  「外国人」というのは、日本国籍の有無によって決まり、日本語を子供のころ から使っていたかどうかということとは別のことです。   逆に、日本国籍を持ってはいても、外国で教育を受け、日本語よりもそこの 言語のほうが使いやすい、という「日本人」も多くなっています。この人たち にとって、日本語は「外国語」ではないでしょうが、たとえばその国の大学に 入って勉強する場合、「国語」ではなくて「日本語」として、その国の人たち と同じように学ぶことになります。  「日本語母語話者」という言い方はいかにもこなれていないので、それを (以上のようなことがあることは知った上で)「日本人」と言い、「外国語と しての日本語学習者」を「外国人」ということは、便宜的には許されることだ とは思いますが、できるだけ、「外国人」とは言わずに「学習者」という言い 方をしようと思っています。  
◇「外国語」と「日本語」:言語の数え方
 ちょっと雑談的に、いつも思っていることを書いておきます。  上で、「日本語」というのが、単純には特定できないものだということを書きましたが、 「外国語」のほうは、そういう意味では単純かもしれません。「外国で使われている、日本 語以外の言語」、と言えば、まあそれでいいのでしょうから。  しかし、ここで注意すべきことは、「外国語」とは、「外国」+「言語」であって、「外 国」+「国語」ではないということです。  言語を数えるとき、よく使われる言い方に「〜か国語」という言い方がありますが、これ は正しくないと私は考えています。言語を数えるのに、「国」で数えてはいけない、という ことです。  例えば、ある人が日本語と韓国語と中国語を話せるという場合、「三か国語が話せる」な どと言うことが多いのですが、では、あるマレーシア人が「マレー語(マレーシア語)+広 東語+英語」を話せた場合、「三か国語」が話せる、と言えるかどうか。「広東語は中国語 の方言に過ぎない」ということで「二か国語」? いや、それだったら、鹿児島弁しか話せ ないおじいさんは「一か国語」も話せないことになってしまう?   「広東語」は「中国語」の一種として数え、「マレー語+広東語+英語」でも、「マレー 語+広東語+英語+北京語」でも、同じく「三か国語」とする、というのは、それはそれで 一つの考え方かもしれません。「国」を言語の単位とする、という考え方です。  でも、オーストラリアのアボリジニーが、自分の民族のことばと英語を話せた場合、2ヶ 国語とは言えないんでしょうね。2つの言語が話せることは明らかだとしても。そのことば が「国」を持っていないからです。「国」を持っていない言語のほうが、「国」と結びつい た言語よりはるかに多いことは、言うまでもないでしょう。  中国には多くの少数民族がいます。ウイグル族の人が、ウイグル語と中国語(北京語)が 話せる場合、「二か国語」ではなくて、2つの言語、でしょう。  では、中国の朝鮮族の場合は? 朝鮮語と中国語で二か国語?   というわけで、言語を数える場合、「〜か国語」と言うのはやめよう、というのが、私の 主張です。少数民族の言語を研究している言語学者は、おそらく「〜か国語」という言い方 はしないだろう、と私は思います。  ここで小さなクイズを。「外国語」でも「日本語」でもない言語はあるでしょうか。  答えは、この「補説」のいちばん下に書いておきます。

§00.2 いくつかの「文法学説」について

 文法研究のいくつかの学説について、私の頭の中にある見取り図をかんたんに紹 介しようと思います。  もとより、きちんと調べたものではなく、私の個人的な考え方、印象によるもの です。  まず、学校文法につながる流れから。  国文法の学者として有名なのは、明治から昭和の戦後までの時代にそれぞれの説 を打ちたてた、山田孝雄・松下大三郎・橋本進吉・時枝誠記です。それぞれ、山田 文法・松下文法・橋本文法・時枝文法と呼ばれる文法を作り上げました。  基本的には文語(古典語)の研究が中心で、口語(現代語)にその成果を応用す る、といった志向の文法研究です。  これら4人と、後で触れる佐久間・三尾・三上の文法の内容については、   工藤浩「諸家の日本語文法論」 http://hw001.gate01.com/kudohiro/bunpoogakusi.html が非常にすぐれた紹介になっています。(省略されている図表は、元の本を見ない とわからないのですが)  その中で、橋本文法が現在の学校文法の元になっています。意味に頼らない、あ る意味でわかりやすい文法ですが、品詞論があって、助詞や助動詞の用法の解説が あって、ほんの少し構文論への入り口をのぞき、それで終わりです。  それでも、文語文法としては、それなりに役に立っているようです。古典語の文 法でわからないのは、動詞・形容詞・形容動詞の活用と、それらへの助動詞の接続 が中心だからです。それ以外の、本来の構文論で研究されるべきところは、現代語 とあまり変わらないからです。  その、現代語の構文論を考え始めたのが、佐久間鼎・三尾砂・三上章です。佐久 間と三尾は心理学、三上は数学教師、と3人とも他の分野から文法研究に入った人 たちで、新鮮な考え方で文法に取り組みました。  私は、文の内部構造という意味での構文論は、三上から始まると思っています。 文とはどういうものか、とか、品詞とか、文の性質とか、文のある部分についての 研究などでは、三上以前の人たちもいろいろな成果を得ていると思いますが、文の 内部構造、文がどのように作られていくのか、特に複文の研究などは、三上が始め たと言っていいと思います。  三上の論は、寺村秀夫というすぐれた後継者を得て、現在の文法研究に大きな影 響を与えています。そのことは後に述べるとして、現在大きな位置を占めているも う一つの流れについて述べましょう。  「言語学研究会」というグループがあります。研究会の名前というものは、地名 や人名を入れたり、何かゆかりのある言葉を入れたりとかして、固有名らしい名前 をつけるものだと思うのですが、このグループは違います。この一般的な名称で、 世の中に存在を知らしめようと(?)考えているかのようです。  それはともかく、むぎ書房という出版社からすぐれた本を何冊も出していて、十 分にその名が知られたグループです。  奥田靖雄がリーダーで、高橋太郎、鈴木重幸が文法研究、宮島達夫が語彙論、そ して最近は工藤真由美がアスペクト論ですぐれた研究をしています。宮島は国立国 語研究所の『動詞の意味用法の記述的研究』というすごい本の実質的著者でもあり ます。    このグループの特徴は、徹底した実例主義、それもハンパでない数の用例から帰 納的に用法を取り出していこうという研究態度がまずあげられます。私の「概説」 にも、「並列など」の補説と、「条件」の補説に、このグループの論文の用例を抜 き出したノートをのせてあります。その数の多さに感動して、昔、時間をかけて作 ったノートです。    もう一つは、ロシア言語学の影響の深さです。このグループの研究の大きな柱は、 「連語論」と「アスペクト論」ですが、どちらもロシア言語学の影響がはっきりと わかります。(私はロシア語はわかりませんが、論文の中で言及されている文献な どから明らかです。)日本の言語学は、ヨーロッパ特に英仏独の言語学と、アメリ カの言語学の影響が大きいので、このグループがロシア言語学を深く学んでいるこ とが、独特の雰囲気をもたらす原因になっているのでしょう。    このグループについて、そしてその研究の中身について書くべきことは多いので すが、それはまた別の機会にすることにして、他の流れを見ていきましょう。 生成文法による日本語文法研究  1950年代にChomskyによって始められた文法理論で、初期は「変形文法」と言っていま した。初めは英語を分析対象としていましたが、日本語への応用も1960年代に次第に行 われるようになりました。  久野ススムの「日本文法研究」(1973)、井上和子の「変形文法と日本語(上)」 「同(下)」(1976)が有名です。  生成文法の特徴の一つは、厳密な方法論と分析の手順にあります。その基盤には、数 理言語学という、言語学というより数学の一分野である理論があります。  「アメリカ構造主義言語学」と呼ばれる理論が変形文法を産み出す母胎であったので すが、それを鋭く批判し、対立することによって、変形文法はアメリカの言語学界に広 まっていきました。  その革命的な手法によって、構造主義言語学の行き詰まりを打破し、多くの新しい成 果をもたらした変形文法は、日本語文法の分析にも力を発揮し、70年代には日本語文法 の主流になるように思われました。  しかし、その目標は、言語構造の探究により人間の言語能力を解明することにあり、 文法を明らかにすることそのものが目標ではありませんでした。したがって、理論自体 の改訂が繰り返され、議論の複雑さが増すにつれ、文法の記述ということに力が振り向 けられることは減っていきました。  生成文法の研究者には英語の研究者が多く、日本語との比較という形での日本語の研 究が多くなされています。それは日本語研究の中から発せられた問いではなく、英語の 問題が日本語ではどう現れているかという問いであることが多くなります。 (tuduku)
◇「学校文法」について
 「学校文法」についての二つの意見を。
野田尚史『はじめての人の日本語文法』「はじめに」から
                くろしお出版 1991  
日本語の文法は国語の時間の文法とは違います
 みなさんの中には、国語の時間に口語文法を習ったことがあると言う人がいるかもし れません。あの口語文法というのはいったい何のために勉強したのでしょうか。口語文 法を習ったおかげで話すのがうまくなったり、文章がすらすら書けるようになったりし た人がいないとすると。  いちばん大きな目的は、古典文法のための準備ということでしょう。古典文法で突 然、活用やら助動詞が出てきても驚かないように慣れておくという、そういう目的です から、口語文法は古典文法の枠組みに無理やり合わせて作られています。ですから、そ うしてできた学校で習う口語文法は論理的でもないし、実用的でもないものになってい ます。  国語の時間の口語文法はわからないとか、つまらないとか思ったことのある人は、で すから、ほんとうはとても頭がよくて、文法的なセンスがある人かもしれません。 ▽ずいぶんはっきり言い切っていますね。最後の2行はなかなかいい皮肉です。  ちょっと用語の説明を。  「学校文法」は「国文法」に基づきます。「国文法」は「文語(古典語)文法」と 「口語(現代語)」文法の二つの部分に分けられます。  なお、「文語」は、「古典語」の意味と、「文章語」の意味になる場合があるので、 まぎらわしいことばです。  それに対応して、「口語」も、「現代語」の意味と、「話し言葉」の意味で使われ る場合があります。
甲斐睦朗「日本語教育に占める文法研究の位置」
                     『日本語学』2001.3 
4 学校文法と日本語教育用文法の統合は可能か
 日本語教育に携わる人の多くは中学校などで現在も学校文法を教え続けていることに ついての不信感をもらす。たしかに学校文法は各種の問題を含んでいる。そういう学校 文法が、中学校の国語教科書に半世紀以上も取り上げられているのは、それが一貫した 見方で構築された体系を備えているからである。言語生活に役立つ文法を取り入れるべ きだ、また、学習者が自ら発見し、組み立てるような教材を工夫すべきだという当然な 意見も出ている。そういう見方で国語教科書の文法単元を改善する努力が続いている が、その試みは体系的な美しさを伴わないという問題を残している。結局のところ、学 校文法にかわる文法は提案されていないのである。  他方、日本語教育のための文法は個別的には優れた部分を幾つも有しているが、学校 文法の根本的な改善案として育ちそうにない。例えば日本語教育の場では長年形容動詞 をナ系形容詞として教えている。その見方はすでに定着しているというべきであるが、 日本語文法としては正面から取り上げられていない。その見方が、例えば、次々に刊行 されている数多くの国語辞典の品詞分類に反映されることがないのである。                              (p.14) ▽筆者は国立国語研究所所長(!)です。  あきれてものが言えない、ということばはこういうときに使うのでしょう。  「学校文法の体系」というのは、品詞論しかない文法について言えるのかどうか。  「学校文法」というのは、その程度のものでしかありません。  構文論を本気で述べようとすると、たしかに「美しい体系」は難しいかもしれません。 でも、学校文法のように(構文論を)何も書かないよりいいでしょう。  国語辞典で「ナ形容詞」という用語を使わないのは、学校で教えないから、単にそ れだけです。多く売りたい出版社が、辞典の使用者が知らないことばを使うわけがな いでしょう!   この、「国立国語研究所」所長の知識のなさ、認識の低さが現在の国語教育の中の 文法の問題をみごとに物語っています。

Hebi no Asi

 「まえがき」からの続きです。    
まえがきへ  すぐ上の「学校文法について」もご覧ください。   学校文法について  
[文法研究の用語のゆれ]
 自然科学の場合、たとえば物理学や化学では、どんな教科書を見ても基本的な概念は 共通のものです。教科書によって、定義が違うということはありません。「加速度」 や「原子」、「電磁波」や「化学結合」の定義は、どの本を見ても、外国で出された本 を見ても、同じものでしょう。  ところが、日本語の文法の研究では、本によって、学者によって、基本的な術語の定 義、考え方がかなり大きく違っています。「文」と「単語」については、「はじめに」 の補説でかんたんにふれておきましたが、他の術語についてもいろいろと違いがありま す。困ったことです。  なぜそうなってしまうのか。自然科学の研究史の長さ、研究者たちの能力の違い、と いうこともあるのかもしれませんが、より根本的な問題として、問題の性質の違いとい うことがあるのだろうと思います。  「加速度」は目に見えるような「モノ」ではありませんが、現実の世界の中で、実感 できるような概念です。それを法則としてとりだし、皆が納得できるような形にするま でには長い時間がかかったのかもしれませんが、一度明らかになってしまえば、だれに でも納得できる考え方、とらえ方です。    それに対して、文法研究の中で使われる概念は、研究の歴史が浅いということもあり ますが、とらえにくく、また、現に存在するものというよりは、人間(研究者)が研究の ために作り出した概念という面が強いように思います。  客観的な実験や推論によって、多くの研究者が賛成するような概念、術語が決めてい ければいいのですが、なかなかそういう具合には行かず、研究者がそれぞれ自分の考え で基本的な術語の定義をしているのが現状です。  いくつかの用語について 「従属節」という用語については、「複文」の補説に書きました。人によって全く違 います。  「主語」についてもいろいろと論争がありますが、これについては「ハについて」の 補説に私の見方を書いておくことにします。(下にもコピーをします)  「活用形」について「国文法」と現在のさまざまな研究書が違うことは「活用・活 用形」のところで述べました。私の『文法概説』も国文法の活用形のかんがえかた、そ の名称は引き継ぎません。日本語教育で一般的と思われるものをだいたい採用しています。
[主語について]
(「5.「は」について」の補説から)  「主語」についての考え方に関するメモです。いわゆる「主語否定論」をめぐっては いくつかの考え方があります。それぞれの主張を私なりのとらえ方でまとめてみます。 0 日本語にも「主語」はもちろん存在する。 (「主語」肯定論)  0-a 英語と日本語の「主語」は、基本的に共通する概念であり、言語の普遍的    な性質を示している。  0-b むろん、言語による違いもあるが、それは本質的な問題ではない。  0-c 日本語では「名詞+が」が主語を示す。その名詞が「主題化」された場合    は「〜は」になる。  0-d 「私は果物が好きだ」などの「果物が」は主語ではない。目的語である。    ある種の述語は、この「目的語を示すガ」を要求する。  0-e 「〜は」は「主題」であり、「主語」を示す形ではない。「〜は」は「主    語」を兼ねることも多いが、そうでない場合も多い。  1 英語などの「主語」と日本語の「主語」は(非常に)違った性質のものだ。   (日英「主語」異質論)  1-a 英語には英語の「主語」があり、日本語には日本語の「主語」がある。  1-b だから、その性質の違いによく注意することが必要である。  1-c その違いがわかっていれば、日本語文法で「主語」という用語を使うこと    はかまわない。  (こう考える文法研究者は多いと思います。)  1-d 日本語で「主語」という用語を使うと、誤解されやすいので、使わないこ    とが望ましい。代わりに、たとえば「主格」などの用語を使うのがよい。  (こう考える人も多いと思います。私はここに入ります。) 2 日本語には「主語」というものはない。 (「主語」否定論)  2-a 日本語の文法で「主語」という用語を使ってはいけない。  2-b 「主語」という用語は、英語などいくつかの言語だけに使える用語で、世    界の言語に共通するものではない。  2-c 「主語」を日本語の文法で使う人は、日本語の文法がわかっていない。  (こうまで言う人はあまりいないと思いますが、声はけっこう大きいです。) 3 日本語に「主語」と呼べるものはあるが、英語とはその位置づけが違う。  3-a 世界の言語には、「主語優位型」の言語と「主題優位型」の言語がある。  3-b 英語は「主語優位型」であり、日本語は「主題優位型」である。    (英語にも「主題」はあり、日本語にも「主語」はある。)  (「言語類型論」の言語学者の言い方です。) それぞれの内部でもいろいろと人によって考え方が違います。 ここに大まかにまとめた以外の考え方もいろいろあると思います。

§0-3「文法研究」の考え方

 文法の研究のしかたには、少なくとも2つの方向があります。  一つは、人間の言語とはいったいどういうものか、その根本的な性質、特徴を見出 そうとする方向、言い換えれば理論的な探究の方向があります。  理論的文法がとりあげる文法項目は、いくつかの、理論的興味が持てるようなもの に限られる傾向があります。言語の、すべての項目を扱うよりも、数少ない項目を深 く探究することで、その言語の、あるいは言語一般の本質的特徴を明らかにしようと します。  もう一つの文法研究の方向は、具体的に一つ一つの文法項目をとりあげ、そこにあ る個別の性質、用法を明らかにしていこうとする方向、言い換えれば記述的な方向で す。  記述的文法は、その言語の全体的、網羅的な記述を目指します。  その意味で、記述文法は実用的な文法です。ある単語、ある文がどのように使われ るかを記述していくわけですから、その言語を学ぼうとする人たちにとって、その言 語の使い方を知る道具となります。  文法というものに関して、研究の方向性とは別に、もう一つのとらえ方があります。 それは、できあがった文法(記述)をどのように使うか、という観点です。  記述的文法は、この点で、規範的な文法と対立します。いわゆる「正しい言葉遣い」 (それは多くの場合、より古い時代の言葉遣いです)を決め、人々が模範とするよう なことばの使い方を指定するのが規範文法です。それに対して、記述文法は、人々が 実際にどのように話しているかを記録し、そこにある規則を見つけだして記述しよう とするものです。  したがって、記述文法をめざす文法研究者は、「正しいことば」という言い方にあ まり興味がありません。多くの人が使っている言い方があれば、それを記述するだけ で、それが「正しい」かどうかは気にしません。それが古くからあるものか、最近の ものなのかには興味がありますが、それを「正しさ」の基準としようとは考えません。  この意味では、記述文法は、その言語の学習者にとってちょっと不便なところがあ ります。どの言い方を選ぶべきかを教えてくれないからです。どのような人がどのよ うなときに使うのか、といった、言わば社会言語学的な面まで記述すれば、それを読 んだ人が自分で判断できるのですが、なかなかそこまでの細かい記述はふつうは望め ません。    私の「現代日本語文法概説」は、もちろん理論的文法ではなく、全体的な記述を目 指していますが、日本語教育のための文法ということもあって、部分的には規範的な ところもあります。
◇言語習得の中の文法
 私は、文法研究の考え方として次のようなことを考えています。  文法研究は、人間の頭の中にある「文法」を記述することが目標なのですが、 その完全な形をそのまま研究対象とするのは、相手が大きすぎて難しい面があ ります。そこで、次のような、何らかの点で「不完全な」文法を考えてみます。  1 子どもが自分の母語を習得していく際には、どのような段階を経ていく   のか。子どもは、発達の段階で、文法習得が不完全な状態でも、周りの人   間とどんどん情報伝達を行っている。その際の文法はどのようなものか。   (第一言語習得の問題)  2 外国語(第二言語)を習得する際には、どのような順序で文法を学習し   ていくと効率的か。その文法はどのような形で記述されるべきか。学習者   は、多くの場合、不完全な文法のままその言語を使用する。その文法はど   のようなものか。   (第二言語習得の問題)  3 人工知能が言語を使えるようにするためには、どのような文法を与えた   らよいか。人工知能に与えられる文法は、どのみち不完全なものである。   それでも、一通りのコミュニケーションを行うためには、その文法はどの   ようなものでなければならないか。   (自動言語処理の問題) これらは、目標となる完全な文法の不完全なモデルを、それぞれの段階で作 っていきます。それぞれ、その「不完全さ」には違いがあるでしょう。  以上の中で、第二言語習得のための文法記述ということを中心に考えながら、 しかし、他の二つの問題も頭におきながら、この文法を書こうとしました。 ◇以下では、「文法を書く」ということについて、あれこれ書いてみたいと思います。  いくつかの文法書からの抜き書きと、私の考えたことを書いていきます。

§00.4 寺村秀夫から

 寺村秀夫の著作から、寺村が「文法」というものをどうとらえているか、「文法 を書く」ということをどう考えているのか、ということに関するところを抜き書き してみます。  

A.寺村秀夫『日本語の文法(上)』国立国語研究所 1978

「1.はじめに 日本語のきまりと仕組み」 1.1 ことばが「できる」というのはどういうことか  外国人に日本語を教える者にとって必要な「文法」とは何か  いったいある言語が「できる」とか「わかる」とかいうのはどういうことなのか   オウムや機械と3才の子どもとの違い     与えられたまま以外の言葉を発したり理解したりすることはない     人間の場合は、その人自身の感情や思考と結びついている    幼児の言語習得はだいたい六歳ぐらいで完成する、と言われている   ことばが自由にあやつれるようになるのは、もっとずっと早い時期、三歳前後と 言ってよさそうだ     「創造的能力」の獲得       第二言語教育のための意識的・体系的把握 1.2 聞いて「分かる」ということ     ことばが「できる」ということの第一の側面     耳に入ってくる音声の流れを、即座に意味のあるものとして受け取ることが できるということ     1 間断なく流れてくる音の流れを、その言語の文を構成する「部分」として    (つまり認識的には区切って)つかむということ 2 その部分の意味を(機械が辞書から検索するように)記憶によって知る      という段階     3 このとき、「部分」従って「意味」に大ざっぱにいって二通りある       1 外界のものやその様子や動きなど、いろいろな実体、実質を指        すものについてはそれが何かということがわかり、       2 それらをつないでお互いの関係を表すような種類のものについ        ては、その関係づけの仕方がわかっていなければならない  「ちょっと長い文の場合を考える」例    「その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて     貰えと勧める人であった。」   何語と限らず、文の意味がわかるということの基本には、出来事、動作、  状態を表すことば(動詞や形容詞の類−以下「述語」と呼ぶ)を中心に、  実体を表すことば(名詞の類)が何らかの関係で結びついて、全体で一つ  のまとまった具体的な事象、「こと」を表しているということの理解があ  るだろう。                       (p.4)   一般的な日本語のきまり・仕組みについての知識がどんなものか    まず、述語(動詞)がどういう「名詞+助詞」と結びつくものか 補語    次に、述語のいろいろな形と意味の結びつきについての知識       動詞に共通に現れる語尾や、補助形式が一般に持っている意味    この文がどういう意味のまとまり、さらにそのまとまりというように、    いわゆる構造をなしているか、ということ   直接構成要素分析    文の表面に現れていないことの理解   以上、聞いて分かるということの中味を四つの段階で考えた。このほかにも  さらにいうならば、聞き手の真の意図とか、言い方の微妙なニュアンスとか、  あるいは上品とか下品とかいったことを聞き取れるということも日本語の能力  の一端ではあろう。しかし本書では、それらは文法の手の及ぶ範囲を越えたも  のとし、少なくとも中心的課題とはしない。   以上で言語能力のうち、「聞いて分かる」という側面についての考察を打ち  切り、多の側面に眼を移すことにしよう。 (p.6) ▽寺村は、「ことばが「できる」ということの第一の側面」を「聞いて分かる」  こととする。  そして次に、「正しい文が作れる」ために必要な知識を、誤用例から探ろうと  する。 1.3 「正しい」言い方かどうかの判別  ことばができるということの一方の側面は前節で見た「聞いて分かる」ということ であるが、もう一方の側面は、いうまでもなく「正しい文が作れる」ということであ る。  生活のいろいろな場で、自分の観察したり考えたり感じたりしたことを相手に伝え るために、正しい単語を選び、それを組み合わせ、そして正しい発音で送り出す、そ の作業ができるということである。  そのためにはどういう一般的な知識が必要かを考えるわけだが、この「語の正しい 組み合わせ」を知るのによい方法は、「正しくない」と日本人が判断する文を集め、 それがなぜ、つまりどういうきまりに反しているから「誤り」だと判定されるのかを 考えることである。                     (p.7) ▽誤用例は文の形であげられているが、省略して引用する。  問1 23の誤用例   1 を結婚する        補語と動詞   2 大ぜいの本屋       連体と名詞の選択制限   3 から十時ほしい見るテレビ  語順   4 面白いの本        形容詞の連体   5 山田先生から紹介状    名詞+格助詞の連体   6 私へ来なさい       名詞のトコロ性   7 喫茶店にコーヒーを飲む  場所のニ/デ   8 笑うことを見る      名詞節のノ/コト   9 山田先生を知ります 知っている  動詞の時間性   10 だれにか         不定語と格助詞の語順   11 だれもに           〃   12 日本人はたらくかたいから朝まで夜   語順   13 悲しいと不愉快です    述語の並列   14 水は寒かった       名詞と形容詞の選択制限   15 吉川先生を会う      補語と動詞    16 病気なおばあさん     名詞の連体    17 いま死んでいます     テイルの意味 アスペクト   18 医者が何人ありますか   アルとイル  存在動詞の選択制限   19 あけられさせました    ボイス形式の語順    20 首都は何ですか      疑問語の用法?    21 母は行きたい       希望の人称制限    22 眼をしめる        動詞の意味? 類義語の用法の違い   23 きのうに         時の名詞とニの付加 ▽以上の例を並べ替えて、似たものをまとめて示す。 ・並べ替え   3 から十時ほしい見るテレビ  語順   12 日本人はたらくかたいから朝まで夜   語順   10 だれにか         不定語と格助詞の語順   11 だれもに           〃   1 を結婚する        補語と動詞   7 喫茶店にコーヒーを飲む  場所のニ/デ   15 吉川先生を会う      補語と動詞    4 面白いの本        形容詞の連体   5 山田先生から紹介状    名詞+格助詞の連体   2 大ぜいの本屋       連体と名詞の選択制限   14 水は寒かった       名詞と形容詞の選択制限   18 医者が何人ありますか   アルとイル  存在動詞の選択制限   22 眼をしめる        動詞の意味? 類義語の用法の違い   6 私へ来なさい       名詞のトコロ性   23 きのうに         時の名詞とニの付加   20 首都は何ですか      疑問語の用法?    21 母は行きたい       希望の人称制限    8 笑うことを見る      名詞節のノ/コト   13 悲しいと不愉快です    述語の並列   9 山田先生を知ります 知っている  動詞の時間性   17 いま死んでいます     テイルの意味 アスペクト   16 病気なおばあさん     名詞の連体    19 あけられさせました    ボイス形式の語順  ▽これらの誤用を正すために必要な「きまり」を四種に分けて説明する。 ◇「四種の決まり」 p.10  ふつう最も「ひどい」とかんじられる・・・語順・・・第一種のきまり  動詞によって、それと一定の意味関係に立つ名詞がとる助詞が決まっている                       ・・・第二種のきまり p.12   一般にある種の語が、他のある種の語と一緒に使えない性質を持っている  とき、それを「共起制約」というが、それは上のような、名詞、形容詞、動  詞といった、いわゆる「実質語」どうしについていわれるのがふつうのよう  である。これは、第一種や第二種の問題よりは、語の意味的特性により深く  関わらざるを得ない性質のきまりということになろう。 ・・・第四種のきまり  名詞は、その種類によって、それと他の語との関係を表すために付ける助詞  がきまっている                ・・・第三種のきまり −−-供檗檗 ↓ |   (機ソ卍衒犬慮貊隋泡 名詞+助詞 ・・・・・・ 動詞                   |  ↑     形容詞                −掘 ↑ ↑         |                    −−−−検檗檗檗                              (p.12)   以上、問1の「おかしい」文例を手掛かりに、それらをおかしいとするのは  どういうきまりなのかをざっとではあるが考えてきた。この仮定で気がつくこ  とは、ここで見た「語を正しく組み合わせて文を作る」ために必要な一般的知  識というのは、前節で見た「聞いて分かる」ために必要な一般的知識と同じも  のだということであろう。それは実は当然のことで、「聞き手の文法」と「話  し手の文法」が別の形で記述されることはあり得るけれども、その基礎となる  のは同じ言語能力なのである。                               (p.14) (つづく)

B.寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味I』くろしお出版1982

  (目次は「1.日本語の文型の概観」の補説にあります。 →
こちら) 序章 「0.はじめに」  ことばというのは、音声の流れと意味とが、一定のきまりによって結びついたもので ある。「意味」といえば、われわれは一つの芸術作品についてその「意味」を考えたり、 あるいはある歴史上の事件の「意味」を議論したりすることがあるが、これからここで 考えようとするのは、そのような難しい意味ではなく、ごく平凡な、われわれが日常そ れにたよって生活をいとなんでいるような「意味」である。ある言語で話される音声を 聞いて、あるいはそれが文字に書かれたのを読んで、その言語社会で生まれ育った人間 なら誰でもが理解するような「意味」である。たとえば、(以下略)                             (p.11) ▽寺村は、「意味」をまず理解の面からとらえます。  ある発話、文章に接したときに、「誰でもが理解するような」ものです。  以下、類義形式の微妙な違いについて述べていきます。 p.11  類義形式の微妙な違い  ハ・ガと複文   1 お姉ちゃんが帰ってきたら、すぐピアノの練習だ。     お姉ちゃんは帰ってきたら、すぐピアノの練習だ。       [お姉ちゃんが帰ってき]たら、φすぐピアノの練習だ。     お姉ちゃんは[帰ってきたら、すぐピアノの練習だ]。  p.12   〜ノヲ見る/ト見る   2 折り返し点の手前で追い上げてくるのを見て、スピードを上げた     折り返し点の手前で追い上げてくると見て、スピードを上げた       〜を見る       〜と見る  判断する  〜ノニの多義性   3 数が足りないのに気がついた     名詞節     数が足りないのに何も言わなかった  逆接       数が足りないのに気がつかなかった  どちらか     φ[数が足りないの]に気がついた       名詞節     [数が足りない]のに [φ何も言わな]かった  逆接     φ[数が足りないの]に気がつかなかった       名詞節     [数が足りない]のに [φ ソレニ 気がつかな]かった  逆接 ▽ これらの例の出し方、論じかたはさすがというか、実にわかりやすく、興  味深いものです。しかし、これらがすべて複文の例であるというのも、また  考えさせられます。寺村は、ついにこれらをくわしく論じることができなか  ったのです。  この後、   「1.なぜ「おかしい」のか −ことばのきまりの種類について」 と題し、『日本語の文法(上)』と同じような誤用例を使って、文法規則の種類を 説明していきます。  次に、     「2.「分かる」とはどういうことか −意味の種類について」  を考えていきます。そして、最終的に次のような対照表を提示します。 p.35  「分かる」ということの内容   誤りの種類を考えることから、日本 から「意味」を仕分けする    語のカタチづくりの規則を整理する ・・・・・・・・・・・・・・・|・・・・・・・・・・・・・・・・・・   「意味」の種類      | カタチづくりの規則の種類 ・・・・・・・・・・・・・・・|・・・・・・・・・・・・・・・・・・   |  音の選択      辞書的意味 |  語の連結と音韻変化 | 語の選択 ・・・・・・・・・・・・・・・|・・・・・・・・・・・・・・・・・・    関係的意味 | | 機ジ譴亮鑪爐版枸鷭臀     格関係的意味 | 供テ飴譴亮鑪爐(格)助詞の選択 | 掘ヌ昌譴亮鑪爐判詞の選択     取り立て・対比的意味 | 取り立ての助詞の用法     修飾・限定的意味 | 后ソぞのカタチづくり     接続関係的意味 | 此ダ楝海離タチづくり ・・・・・・・・・・・・・・・|・・・・・・・・・・・・・・・・・・    描叙類型的意味 | 検ソ匕譴粒萢儼舛畔篏形式の選択 ・・・・・・・・・・・・・・・|・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | 察ッ模辰涼罎離タチの適切さ | ムードの助動詞の用法 | 自然さ・不自然さの条件 | 敬語    真意・暗意 |    品位、その他 | ・・・・・・・・・・・・・・・|・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ▽寺村以前に、このような形で問題を整理した研究があったのかどうか、私は  不勉強で知りませんが、寺村が問題の全体像をしっかりととらえていたこと  を上の表は示していると思います。 なお、動詞文型表、形容詞文型表が「4.動詞文」の補説にあります。→こちら

§00.5 文法を書くということ

 これまでに多くの日本語文法が書かれてきました。それらを書いた人は、どういうこ とを考えながら、また、どういうところで迷いながら、それぞれ自分なりの文法を書い たのでしょうか。  私も、自分で「概説」を書く際、文法とはどのようにして書くものなのだろうかとい うことについていろいろ考えました。  文法記述の最初に何をどのように書くか。その次には何を書き、さらに何を書くの か。どの程度のことを書けば、日本語の文法として一通りのことを書いたことになるの か。そして、文法の最後には何を書いて終わりとするか。  これらのことは、ある程度書き手(文法記述者)の自由でしょう。こうしなければな らない、というきまりがあるわけではなく、じっくり考えれば必ずこうなるはずだ、と いうような一つの答えが決まっているとも思えません。  基本的な問題、基本的な構造から、より発展的な、複雑な構造へ、ということが基本 にあるとしても、では、ある構造と別の構造のどちらを基本的と考えるかには、いろい ろと迷うことが多いものでしょう。  日本語の文法(記述)は、全体としてどの程度の大きさのものになるのか。「概説」は だいたい1000ページのものになりました。書き始めたときの予想よりもはるかに大きな ものになったのですが、書いてみると、まったく不十分なものでしかありません。どう いう問題を、どの程度くわしく書けば、「日本語文法のほぼ全体を、一通り記述した」 ことになるのでしょうか。  「日本語の文法を書く」ということについて、私の考えたことを以下に述べてみよう と思います。(「日本語」は「現代東京語」をさします)  具体的に、日本語文法の中で考えなければいけない問題を書き出してみましょう。  まず品詞レベルの問題から。   1 語あるいは品詞について初めに述べてから文に入るか。     それとも、すぐ文の問題に入るか。   2 品詞すべてを並べて語論として解説していくか。(問題1と同じ?)     あるいは、ある品詞についてその用法や文型の説明などをしていくという、     品詞ごとの構文論を展開していくか。   2-a 名詞・名詞句をめぐる問題と名詞文の問題とは別とするか。   2-b 形容詞と形容詞文は別の項目か。   2-c 動詞の性質・様々な分類と、動詞文の問題は別にするか、まとめてしまうか。   3 活用は各品詞ごとに述べるか、まとめて取りあげるか。   4 副詞はまとめて取りあげるか。陳述の副詞などは別にムードと関係づけて取     りあげるか。   5 助詞を一つのまとまりとして説明するか。格助詞・副助詞・終助詞など、別々     に取りあげるか。   6 接続助詞は一括して説明するか。各構文ごとに提出するか。   7 助動詞・補助動詞をどう扱うか。品詞としてのまとまりと、それぞれの機能     の詳しい説明とは別にするか。     それとも、それぞれの構文機能に分けて、別々に記述するか。   8 複合動詞を一括するか。アスペクトなどの機能別に扱うか。   9 形式(機能)動詞をどこで扱うか。   10 接続詞をどこで扱うか。接続助詞と関連づけるか。   11 「こそあど」をどう扱うか。指示詞と疑問詞(不定詞)とするか。疑問詞は     疑問文の中で取り上げるか。  ここまででも、いろいろと考えなければ問題ばかりです。  そのほかの問題で、思いついたものを並べておきます。   12 敬語を文法の中でどこに位置づけるか。     「デス・マス」の文体との関係はどう扱うか。     丁寧体と普通体の問題はどこで扱うか。それ以前の例文はどちらを使うか。     活用の問題として扱うか。「文体」の位置づけ。ディスコースの問題か。   13 動詞の自他とボイスの関係をどう扱うか。     自他は品詞としての動詞の問題か。動詞文型の問題か。ボイスか。     「が」「を」「に」が表すものは格助詞の問題か。動詞の性質か。動詞文型     の問題か。   14 やりもらいの単文と複文の構文をどう扱うか。     単文のやりもらいは動詞文型の一つか。「視点」の問題はどこで取り上げるか。      「談話」か。      複文はボイスで扱うか。     授受表現という一つの表現文型として単文とともに独立させるか。   15 比較構文をどこで扱うか。その前後は何か。     単文と複文をまとめて説明するか。   16 「変化の表現」なるものはまとめて扱うか。     動詞文型と、「Aく/にナル」「V+ヨウニナル」はどうするか。   18 主題という概念をどこで扱うか。「は」の機能はどこで解説するか。     名詞文・形容詞文・動詞文にまたがる問題     しかし、それぞれの文型の説明にも必要   19 文の定義はどこで行うか。単語の規定は論じるか。   20 単文と複文にまたがる事項はどのように扱うか。      修飾(連体・連用)      比較・程度 その他       副助詞(とりたて)      格助詞相当句(複合格助詞・後置詞)      トイウ   21 談話文法に属することはどこで扱うか。最後にまとめるか。      「は」はそもそも談話文法に属する事項だが、当然単文で扱う。      談話文法との棲み分けはどうするか。  これらは、「文法を書く」際に考慮しなければならない問題のほんの一部です。  このほかにもさまざまな問題があるのだろうと思います。  これらの問題を、これまでの文法書ではどう処理しているのでしょうか。  少しずつ、考えていきたいと思います。 ◇以下は別のときに書いたメモです。 問題点の整理  1. 語論・品詞論の位置付け    構文論の基礎として、おおよその品詞分けは必要である。    感情形容詞・動詞の自他・意志動詞・陳述の副詞など、各品詞の用法に関わること   を品詞論として述べるか、文型、つまり形容詞文や動詞文あるいはムードの問題とし   て述べるかということ。    格あるいは補語の問題を、格助詞の用法の問題とするか(学校文法)、構文の問題   とするか。これはほとんど明らかだろう。    助動詞の用法をどこで述べるか。ボイス・テンス・ムードなどに分けても、なお残   るものはないか。「〜わけだ」などを助動詞とする考え方もある。    形式名詞はどこで扱うか。構文としても、どこで。  2. 単文・複文という分け方    分けることの理論的正当性は何か。(cf. 三上章)    いわゆる重文は並列節として複文に含めることができる。    両方にまたがるもの、例えば副助詞・形式名詞をどう扱うか。     そもそもそれぞれの定義は明らかか。形容詞の連体、接続詞など。  3. 記述の順序    品詞論をおくなら、それが先か。(cf. 渡辺実)    構文論の初めに何が来るか。動詞の補語にするのはいいが、名詞文の位置付けは?    (cf. 寺村秀夫、益岡・田窪)    文の種類(平叙・疑問・命令・感嘆)はどこで扱うか。すべてムードか。否定は。    文体・敬語などはどこに位置づけるか。文法の最後か。(益岡・田窪)    文法項目は一次元に並べられるものではない。三次元あるいはそれ以上の形でお互    いに絡み合っている。それをどう一次元に並べるか。  4. 日本語文法の特質    主題、情報構造、「南モデル」の階層論などはどこに位置づけるか。    主題・無題の対立は日本語の基本構造だろう。どこで論じるか。    現代の英文法は情報構造を構文の最後につけて、談話文法へつなげていく。日本語    文法こそ、ここを重視しなければおかしい。    もう一つの日本語文法の成果である階層論はどうするか。  5. 日本語教科書の文法    日本語教科書は、いわゆる「文型積み上げ」を基本方針としている。初級の文法の   まとまりは、それだけで基本的なコミュニケーションのために役立つように考えられ   ていて、いわば日本語のミニグラマーになっている。その提出順序はどのようなもの   か。その決定の根拠は何か。    経験的に決められてきた順序と、理論的な体系とはどの程度関連があるものか。

§00.6 概説を書き始めた頃考えていたこと

かなり個人的な感想になりますが、私自身がこの「概説」を書き始めた頃に考えてい たことを思い出して書いてみようと思います。こんなことを書く人はほとんどいないで しょうから、今後、日本語の文法を書いてみようなどということを考える人の参考にな るでしょう。(そんな人はいない?)  こういう記述文法を書いてみたいと思ったのは、益岡・田窪の『基礎日本語文法』 (初版1989)がはじめて出たときです。それ以前の文法書には大きな不満を感じていた ので、いい本が出た、と思いました。(それ以前の文法書、としてまとめてしまった中 身はあとでまた少しずつ述べることにします。)  何よりも、記述内容が新しいと思いました。寺村秀夫の『日本語のシンタクスと意味 機戞忰供戮瞭睛討鬚ちんと受けて書かれていました。別の言い方をすれば、1980年代 の研究の成果が反映した内容でした。  けれども、多少の不満もありました。例文が少ないのはしかたがないとしても、語に ついての説明(品詞論)がけっこう長く書いてあることに違和感がありました。(例文 が少ない、と書きましたが、伝統的な文法書と比べれば十分な量でしょう。日本語教育 の参考書としては少ない、という高望みです。)  全体の配分は、語論が65ページ(30%)、単文が105(45%強)、複文が33(15%)、敬語など が10(5%)というものでした。  語論(品詞論)から始めるのは伝統的な文法書の書き方です。むろん、品詞の定義な しには文の話もできないのですが、長すぎるように感じました。寺村の本も「準備」と して品詞を論じていますが、『基礎日本語文法』はどうもそれ以前の文法書から脱して いないところがあるように思いました。(ずいぶん勝手な感想ですが)  それに、寺村の、少なくとも構想としては、複文を大きくとりあげようという態度に 対して、複文の割合が小さいように感じました。  それから、第敬遙仮呂痢崔躇佞垢戮構文」というのは、体系的な文法としては好ま しくないまとめ方だと感じました。こういう扱い方でなく、どこか適当な位置づけはで きないものか。  この本に対する不満はいろいろありますが、とにかく、当時の日本語文法研究の中 で、文法記述としてとりあげるべきことのほとんどがこの本の中に含まれており、これ からの文法書のモデルになるだろう、と思いました。  そんなことを考えているうちに、自分で日本語教育のための文法書を書いてみたいと 思うようになりました。もっと例文を多くして、語論でなく、初めから文論(シンタク ス)を扱うような。それは、日本語教科書の文法解説書のスタイルです。  そのような文法書としては、アルクから出た吉川武時の『日本語文法入門』(1989)が ありましたが、アスペクトのところ(吉川の研究分野)以外は非常に簡単なことしか述 べられていないので、大いに不満でした。あの本が「入門」で、さらに詳しい続編が書 かれるのではという期待もしましたが、そういうことはありませんでした。(吉川武時 はnet上にホームページを開いて、「助動詞廃止論」を主張しています。いろいろと興味 深い、参考になることが書かれていますが、『入門』を越えた詳しい(体系的)文法は 残念ながら書かれていません。)  その頃の文法書でもう一つ手元にあったのは高橋太郎他の『日本語の文法 講義テキ スト』(1989?)です。ワープロによる印刷で、いわば「私家版」として始まったもので す。その後改訂が繰り返され、『日本語の文法』(ひつじ書房 2005)としてついに発売さ れました。私は1993年版を持っていましたが、しっかりした内容の本でした。しかし、 高橋太郎の所属する「言語学研究会」の立場で書かれていますから、いろいろな点で私 とは考え方が違いました。(これは、書き出すと長くなるので別のところで論じたいと 思います。)もちろん、日本語教育のための文法でもありませんでした。  そこで、どういう構成にしたらいいのか、あれこれと考えることになりました。  まず考えたのは、上にも述べたように、最初から「文」すなわち文型の説明をしよう ということでした。日本語の教科書の多くは「名詞文」から始まります。(寺村は動詞 文から始めています)。名詞文−形容詞文−動詞文という順で話を進めたいと考えまし た。しかし、それにしても品詞の説明は最低限必要ですし、その他にも文型の説明に必 要な用語がいくつかあります。それらのために、「はじめに」という章が「名詞文」の 前に必要だろうと考えました。  次に考えたのは、単文と複文に分けることでした。これは益岡・田窪がそうであり、 寺村の『シンタクスと意味』がそういう構想になっていたからです。  文の構造を「単文」と「複文」に分けるという考え方は、明治期の文法にも見られま す。お手本とした外国の「文典」の影響でしょう。ただし、昔はその分量は小さなもの でした。それを寺村は、何と全体の半分を複文に当てようという考えを初めは持ってい たようです。    本書は、手もちの材料をまとめるのに合わせて四巻ぐらいになろうかと思う。                    (『機戞屬泙┐き」p.2)  この「四巻」のうち、複文は1巻なのか、あるいは2巻、つまり半分を占める予定だ ったのかは、今となっては確実なことはいえないのですが、私は、おそらく2巻だった のだろうと考えています。  『寺村秀夫論文集』の編集者である仁田義雄によれば、全5巻のうちの2巻が複文の 予定だったと書いています。それにしてもかなりの割合になります。    『日本語のシンタクスと意味』は、複文篇二冊を含めて計五冊になる予定のもので    あった。            (『掘戞屬△箸き」p.299)  ただし、寺村は『供戮離▲好撻トのところで「従属節のテンス、アスペクト」とい う節をたてていますし、『掘戮痢崑茖珪蓮ー茲衫て」でも複文の例を多くとりあげて います。修飾を扱った最後の第8章でも、「述語の並立的結合」というところで複文が 出てきます。単文編・複文編という区別をそれほどきっちり守るべきものとは考えてい なかったようです。  そういうやりかたも自由でいいのですが、私は日本語教科書風に、後で扱うことは先 に出さないようにする(文型積み上げ!)ことを重んじて、できるだけ分けるようにし ました。そのようにして、第一部、第二部を書き、複文は第三部で扱いました。結局、 全体の約三分の一を複文に費やすことになりました。これは、最初から予定したことで はなかったのですが、結果的に、満足できる割合となりました。  それから、単文の文型を大きく「基本述語型」と「複合述語」に分けたこと。これ は、日本語教科書『にほんごのきそ』の文型表に影響を受けています。述語が1つしか ない形がまず並び、文末以外にもう一つの述語が出てくると、いよいよ難しくなってく る、という印象を受けます。その2つ目の述語は、文末表現の一部となるものと、複文 を構成するものとに分けられます。  日本語教科書では、「〜することができる」や「〜するのが好きだ」はかなり早く出 されますし、連体修飾節もそんなに後ろのほうではありません。複文を後ろにまとめて しまい、特に今の『概説』の形のように連用節の後に連体節と名詞節をおくと、これら の比較的やさしい表現がいちばん最後のほうになってしまいます。この点は、日本語教 科書の文型提出順と大きく違ってしまったところです。ちょっと残念でしたが、しかた がありませんでした。  最後に、「連文」を別にとりあげようとしたこと。これは最初からの計画でした。い まだに、なにを書いたらいいのかわからないままですが。接続詞は単文の文法事項では ないと考えていたので、連文で扱いました。これが連文の大部分を占めることになって しまいました。  『基礎日本語文法』には、「談話文法」のような章はありません。寺村にも、特に書 こうという気持ちはなかったでしょう。私にとって参考になった本は、    名柄迪監修(1991)『日本語能力検定試験傾向と対策 vol.1』バベル・プレス    井口厚夫・井口裕子著(1994)『日本語文法整理読本 解説と演習』バベル・プレス の2冊でした。  前者は、書名がよくないのですが、立派な本です。特に井口厚夫の書いた 「掘‘本語の文法(2)日本語の構造」(pp.93-272) は、分量も充分あり、寺村文法をかなり詳しく解説しています。『基礎日本語文法』と ともに、こういう文法を書ける人がいるんだ、と思わされた本です。  その次の章、「検|模叩廚様々な問題を紹介していて、「連文」の参考になりま す。(「供廚呂覆爾いろいろと欠点のある章です。)  後者は、150ページほどの薄い本ですが、日本語文法の全体をうまくまとめてあり、各 章に練習問題までついているというお得な本です。「談話」にも20ページほどをあて、 簡潔に述べています。  これらの本を見ながら、では『概説』には何を書いたらいいかということを考えたの ですが、考えがまとまらないままで、「第4部」は不十分であり、「未完」のままです。

§00.7 三上章抄

私のいちばん好きな文法研究者である三上章の本から、いくつかの文章を抜き書き します。私の感想は蛇足ですが、お許しください。 まず、主著である『現代語法序説』の後書きから。 [1] ただいささかの自負を許してもらえば、これはともかくシンタクスの処女地に一歩踏み こんだものである。それで、私が本書の後半で提出し解決に苦しんでいるような方向の問 題に対して、多くの努力が払われるのでなかったら、日本文法はいつまでもでき上らない だろうと思われる。問題の取上げ方、その処理には、もっと違ったもっと優れた方法があ りえよう。またそうなくてはならない。しかし、問題の所在は本書にだいたい示したつも りである。これがそのような「問題の」一冊として役立つことを切望するものである。    1953「序説」後記 ▽「シンタクスの処女地」というのは三上にしか書けない表現です。  また、「問題の所在は本書にだいたい示したつもりである」というのは、下の「新説」 の「前人未踏」以下の内容と同様に、強烈な自負を感じますが、それが単なる自己満足の 表現などでないところが、すごいところです。自ら「自負」ということばを使っているこ とも、著者の気持ちの高ぶりを感じさせます。  次は、『序説』の次に出版された、『現代語法新説』から。 [2] センテンスの構造になると、事は国際的でなく国粋的になる。だから英文和訳的日本文 法では、まるで手のつけられていない事ばかりである。第十章以下に扱ったのはすべて前 人未踏、呉人少踏の分野に関するものである。 係りの単式と複式(軟式、硬式)、つけたり遊式、センテンスの内部状態の open と closed との段階、引用法の統一、句読点に正置と倒置との両式が必要なこと、疑問文の ファイナルを作る準用詞「カ」から不定句を作る準体的な「カ」への連続など、すべて重 要な提案であって、このような問題と取り組むことなしには、日本語のシンタクスはでき 上がらないだろうと思われる。むろん私の考えたこと(暫定的結論)が正しいとうぬぼれ ているわけではない。私が手をつけた分野が大切だと言っているのである。そこで、私は 息切れがして、協力(批判や反論を含めての)を切望しているのである。 1955「新説」p.19-20 ▽「すべて前人未踏」の領域に自分が手を付けた、というのは、相当の自負です。これだ  けの内容を提起し、考えた三上だからこそ言うことが許される言い方です。  すぐ後の、「正しいとうぬぼれているわけではない」というのも、通常の謙遜ではない  でしょう。自分の結論の不十分さをよく知った、冷静な反省を含んでいるでしょう。  三上の「切望」はほとんど満たされることはありませんでした。三上の没後(71年没)、  20年、30年を経て、やっと研究者たちの問題意識がこれらの問題の重要性に気づくところ  まで来たのです。  (なお、この「呉人少踏」の「呉」の使い方はわかりません。「吾」ならわかるのですが。) そして、最後の著書である『文法小論集』から。処女論文からの引用の後で次のように  書いています。 [3]  読み返してみて、30年間考えが進歩していないのにわれながら驚く。変わったのは用語 ぐらいである。                          1977「文法小論集」p.77 ▽30年間考えが変わらないというのは、これまた驚くべきことです。「進歩していない」  などというより、それほど最初の見通しが確かだったということでしょう。  もう一つ、三上の中心的な課題であった「は」について。 [4]  係助詞「ハ」の文法的性質が明かにされたら日本文法はだいたい完成で  ある、と言っても言いすぎではないほどこの問題は難しい。                          1953「序説」 p.200  ▽三上の全著作の中から、文を一つだけ抜き出すとしたら、これでしょう。  こう言い切れるほど、この問題について考え抜いた、ということを表しています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三上章「語法研究への一提試」『コトバ』1942年6月号  三上章の処女論文からいくつかの文章を抜き書きします。発表された1942年という時期 を考えると、驚くべき内容です。(歴史仮名遣いは現代仮名遣いにします。) [1] 我々の言葉使いは、静的に一つの意味を表しつつ動的に話し手と聞き手を結びつけるも のである。だからセンテンスも二つの成分の総合という風に見るのが便利だと思う。二つ のうち静的要素の方を不定法部分と称し、動的要素を「決まり」と名づける。 1942「一提試」 p.375 ▽「一 主語抹殺論」と題された最初の節の冒頭部分です。文を文たらしめるものは 「陳述」である、という考え方はすでにあったので、「決まり」はそれを受けた考え方 でしょう。  センテンスは「不定法部分+決まり」である、とします。 [2]  主の字を戴いているのは主語だが、センテンスのほんとうの主役は述語、即ち用言の 方だろう。用言では語幹が観念を代表し、活用語尾が陳述作用を受け持つ。今活用停止 の形、たとえば to lend を取上げる。この動詞の観念を充足するために (to complete) 補語 (complements) を追加すると to lend someone something となって一つの不定法 単位が出来上る。この言わば画竜が He did という「決まり」で点睛されて生動するに いたる過程を番号で示そう。源太、平次両君に登場して貰う。   0. (to) lend someone something 1. He (=Genta) did+lend someone something 2. Genta lent someone something 3. Genta lent Heizi something 4. Genta lent Heizi a Book.  この He did という「決まり」が主語タイ述語であって、決まりと不定法単位とは did+lend として接触し化合する。そして切れる時にもここの所で切れる。打消や疑問 文にする際 lent から did が還元される具合を見て頂きたい。また省略も Yes, he did. という風に止めるのが普通で he lent. とは言わない。主語が主語タイ述語として決ま りを形作るに反し、補語は全く不定法内に嵌込まれた観念的存在で、用言の陳述作用に 対しては何らの発言権も持たない。 1942「一提試」 p.375-6   ▽英語では「決まり」は「主語タイ述語」だとしています。この結論に賛成するかどう  かはともかく、その結論を導く議論のしかたは大いに参考にすべきでしょう。 [3]  我が国語の動詞には独立した不定法の形がない。弱変化動詞はまだよいが、強変化動 詞から活用語尾を除くと発音もできない語幹が残る。漢字を借りて「誰カガ誰カニ何カ ヲ貸」で止めれば、さっきの英語の不定法単位に似たものが得られる。そして「決まり」 としては用言に「歩け」と指令するだけで十分で、以下点睛生動の順序を示すと   一、誰カガ誰カニ何カヲ貸シタ   二、誰カガ誰カニ本ヲ貸シタ   三、誰カガ平次ニ本ヲ貸シタ   四、源太ガ平次ニ本ヲ貸シタ であって、主語タイ述語という複式の決まりに従ってはいない。センテンスとしては述 部一本建の単式な組立になっていると見たい。尤もこれは事実を素直に述べる「物語り 文」について言うのである。代表的には歴史年表中の記事がすべてこの式になっている。 提示助詞「ハ」が現れる場合、即ち「品定め文」においては少し事情が違うが、この辺 で独断を下しておけば「源太ガ」は主語(Subject) ではなくて主格補語(nominative compl.) とても呼ぶべき資格のものだ。 1942「一提試」 p.378 ▽つまり、英語と日本語は違う、ということですが、ここの議論は少し弱いようです。  語順の面で動詞によって分けられるということもなく、否定文や疑問文でも特別扱い されない、ということになりますが、すべて消極的な理由です。  [コメント書き入れtuduku] 提示語は無論不定法外に立ち陳述作用に関係を持つ。 1942「一提試」 p.382 ・・我が「ヲ」は obliqueでなく upright側へ入れるに適している。・・・ 次に「ハ」を添えて提示する場合にガとヲだけは省かなければならないことである。・ ・・尤もガやヲを省くと言ったのは察し過ぎであって、 昨日来た葉書は何処にある? −−あれはもう棄てました の問答に於ける「ハ」が或いは主格となり或いは対格となるのは結果論に過ぎない。事実 は、単なる「ハ」による提示語には upright c. しか適用できない、というだけのことで ある。 1942「一提試」 p.384 テンスは何語でも議論のあるところだが、テンスに対する解釈の方を融通の利くように 改めて「時間」と同視しないことにし、完了とか未了とかの字面にあまり囚われないよう に願いたい。簡単に言うと、テンスとは動詞活用表を整調する際の便宜的第二座標に過ぎ ない。ムウドとの間に絶対的区別はないが、ムウド一式で律すると伸び過ぎるから、活用 表をできるだけ引緊ったものにするためにテンスの座標を設け足すのである。 1942「一提試」 p.388 中止法は固有のムウドもテンスも備えていない。それは次に来る用言の言い切り次第で 遡及的に決まる。 紙、墨、筆を買った 菓子を食べ、茶を飲んだら・・・・ 紙と墨と筆を買った 菓子を食べて茶を飲め と並べて見ると対応する趣があり、「紙」や「墨」の格が最後の「筆を」まで行って決定 するように「食べ(て)」の時法は次の「飲・・・・」に依存する。中止法とは呼ぶものの、 だからムウド以前であってヨオロッパ語の分詞などに近いものである。言い切らないで半 分で止めている形だから、定動詞とは認められない。従ってクロオズを背負う力もない。 1942「一提試」 p.388 ・・さて山鳥の尾の如く長々しい部分を語順に沿うて上中下の三段に分けると「使役、 受身、可能−譲、敬、丁寧−打消、時法」となる。効果がそれ以前の中止法動詞まで溯る か溯らないかによる区別である。下のは溯り、上のは溯らない。中の三つは待遇法と総称 されるもので、効果も溯ったり溯らなかったり半々である。そこの手加減は修辞法の領分 だろう。・・・中止法に溯るとか溯らないとかいう意味は次の諸例で領会されたい。 本を買って読ませよ(買ワセヨではない 買エヨ、読マセヨ) 手紙を出して訊いておけ(出セ、出シテオケ) 一列に並んで走り出した(並ビダシタではない) 遅刻して叱られた(遅刻セラレタではない) 同じく(ラ)レルの形でも受身や可能なら中止法に溯らないが、尊敬だと溯ることもあ る。 1942「一提試」 p.391-2 (打消の)中止法への溯り方は、これは一概には言えないが、定動詞のテンスが未了な ら打消に近く、完了なら肯定に近いようである。 徹夜して本を読まなければ(徹夜しなければ) とても読み切れないだろう 徹夜して本を読まなかったら(徹夜したら) どうして時間をつぶすか? 1942「一提試」 p.393-4 腹が減って仕方がない は重文であるかどうか、と訊けば、形の上では重文に違いないが、という割り切れない返 事を得そうである。私の答案は簡単である、−−主格を主語と認めず、中止法を定動詞と 認めないのだから、以下の数例とともにすべて単文である。 これから中止法に就いて卑見を述べます あの男に資本を貸して商売をやらせたら・・・・ その噂に尾鰭が附いて拡がったのでしょう 定休日だったことに気が付いて途中から引き返した 帰って弟を連れてこい 一台の車を男が引き、女が押して通った 花が咲き、鳥が歌う 二つ以上の動作が連続して起るのを言い表すのが本来だろうから、第二以下の動詞に補 語が言い添えてなければ主格が一貫するのが普通ではあるが、一概にそうとも決められな い。非情物に関する時、また我々の行動でも不随意筋的で非情視される補語が現れれば必 ずしも主格が一貫しない。「気が付いて引き返した」は気ガ付イタと気ガ引キ返シタとを 一緒にしたものではない。他動詞に変えて「気を付けて引き返した」とすれば主格が一貫 する代りに意味が違ってくる。 1942「一提試」 p.394-5  名詞文、すなわち包摂判断、措定の主題は無格である。ラテン語や英語の場合と違って 無格である。中国語の「甲是乙」はひょっとしたら我々の仲間かも知れないが。                          1953「序説」 p.135-6   係助詞「ハ」の文法的性質が明かにされたら日本文法はだいたい完成である、と言っても 言いすぎではないほどこの問題は難しい。                          1953「序説」 p.200  ただいささかの自負を許してもらえば、これはともかくシンタクスの処女地に一歩踏み こんだものである。それで、私が本書の後半で提出し解決に苦しんでいるような方向の問 題に対して、多くの努力が払われるのでなかったら、日本文法はいつまでもでき上らない だろうと思われる。問題の取上げ方、その処理には、もっと違ったもっと優れた方法があ りえよう。またそうなくてはならない。しかし、問題の所在は本書にだいたい示したつも りである。これがそのような「問題の」一冊として役立つことを切望するものである。 1953「序説」後記 センテンスの構造になると、事は国際的でなく国粋的になる。だから英文和訳的日本文 法では、まるで手のつけられていない事ばかりである。第十章以下に扱ったのはすべて前 人未踏、呉人少踏の分野に関するものである。 係りの単式と複式(軟式、硬式)、つけたり遊式、センテンスの内部状態の open と closed との段階、引用法の統一、句読点に正置と倒置との両式が必要なこと、疑問文の ファイナルを作る準用詞「カ」から不定句を作る準体的な「カ」への連続など、すべて重 要な提案であって、このような問題と取り組むことなしには、日本語のシンタクスはでき 上がらないだろうと思われる。むろん私の考えたこと(暫定的結論)が正しいとうぬぼれ ているわけではない。私が手をつけた分野が大切だと言っているのである。そこで、私は 息切れがして、協力(批判や反論を含めての)を切望しているのである。 1955「新説」p.19-20 意味を考えるのはむろん法則発見の手段であって、法則が発見されたら、逆にそれに よって意味が推せるような文法を作らなければならない。                          1955「新説」p.161  我々のセンテンスは、活用形から活用形へ係っては結び、結んでは係って、大小の段落を 作りつつついに文末に達する。それで、長短さまざまの文例について、係り結びの様式を 調べていくことが、構文論の最重要な課題になる。                          1955「新説」p.272 四式に分けた分け方、またその命名は一般の賛成を得ないかも知れない。各自、三式で も五式でも好きなように立てられて結構である。名前なんか、それこそどのようにでも付 けられたい。しかし、私の四式に類する何らかの諸式を立て、それによって法則を発見 し、集め、そして個条書きにして並べていくというようにしないと、日本文法はでき上が らないだろう。要は、係りの係り方の様式の研究に努力されたいというのである。 1955「新説」p.280

§00.8 三上章と寺村秀夫

 三上章以前、山田孝雄から松下、佐久間、橋本、時枝まで、文法書はいくつもあり ましたが、「構文論」と言えるものは、私の考えるところでは、ありませんでした。 松下、佐久間にその萌芽は見られますが、三上のような、基礎的な問題から複文まで を見通した構文論(三上の言葉で言えばシンタクス)はなかったと言っていいでしょ う。  しかし、三上もまた、その論を十分発展させるには至りませんでした。三上の書い たものとしては、すべての問題意識をつぎ込んだ「序説」(1953)、それを再整理、発 展させた「新説」(1955)、そして十年後の小さな本「構文」、この3冊が三上の構文 論を展開したものと言っていいでしょう。  他の本は、三上章と言えば「ハとガ」、あるいは「主語廃止論」、と言われるよう に、「ハ」および「主題」に問題を絞った「象」「論理」「革新」と、「序説」「新 説」の簡略版である「続・序説」、そして晩年の回顧的な「小論集」となります。こ れらは、特に「象」が三上の名前を広めた名著であるとしても、三上の構文論を代表 する本とは言えません。  三上に大きな影響を受け、その構文論の基本的な考え方を受け継ぎ、発展させよう としたのが寺村秀夫です。多くの論文を書き、「シンタクスと意味」単文編3巻を書 きました。しかし、第3巻は、完成に至らず、寺村は亡くなってしまいました。複文 については、詳しい分析を展開することはなく、国研から日本語教師用指導書として 「文法(下)」を書いたのみでした。  そして現在、寺村に教えを受けた研究者たちが多くの論文を書き、日本語文法の研 究が急速に発展しました。  しかし、それらは、三上の目指したシンタクスだと言えるのでしょうか。寺村、そ して寺村以後の研究は三上を乗り越えたのでしょうか。 ◇この問題は、いわば「日本語シンタクス研究史」の初めの部分となるのでしょう。  こういうことも、少しずつ考えていきたいと思っています。 ここの内容とかなり重なる本が出版されています。その名もずばり、    『三上文法から寺村文法へ』益岡隆志 2003 くろしお出版 です。基本的な考え方は、私と同じだと思いますが、以下を見ていただくとわかるよ うに、私のほうは問題意識が少しひねています。(以下の部分は、この本が出版される ずっと前に書いたものです。)読み比べていただくと面白いと思います。それにして も、この問題だけで170ページの本を書く力は私にはありません。さすがに本物の研究者 は違うと思いました。 ◇問題(以前書いたメモに、現在のコメントを付け足してのせておきます。) 1 三上章のシンタクスとは何か。(「序説」の「後記」参照)   何が明らかになればシンタクスが書けたことになるのか。   「序説」「新説」「構文」の三冊は、どの程度三上の「願い」を実現した   ものと(三上自身にとって)考えられたのか。   「構文」を書いた63年以後、70年に亡くなるまで、シンタクスについ   て何を考えていたのか。  私にとって、三上章の問題提起は、文法を考える際の最終目標です。  文法とは何なのか。何を書けば、文法を書いたことになるのか。  三上は、どういうことが分かれば、満足したのでしょうか。 2 寺村にとってシンタクスとは何か。何を書けばシンタクスを書いたことに   なるのか。三上との違いは何か。   「日本語のシンタクスと意味」は何を書いたのか、書くはずだったのか。   単文編3巻は寺村の書きたいことをほぼ書いたと言えるのか。   それは三上にとってのシンタクス(の一部)を実現したものであるのか。   違うとすれば、何が足りないのか。基本的な考え方が違うのか。  三上と最も近い位置にいた寺村は、三上と直接話して、何がシンタクス研究の 最終目標であると感じたのでしょうか。  寺村の書いた本・論文は、どの程度自分で満足できるものだったのか。それは、 三上の問題意識にどの程度答えるものだと思っていたのでしょうか。 3 三上にとって、文の基本的構造は「主題−解説」の構造だった。   それが寺村ではどこへ消えたのか。   第郡の「とりたて」の中に「は」を位置づけたのはどういう考えか。  ここが、私にとって、いちばん不思議なところです。三上の「は」の研究を受け 継いだはずの寺村は、「主題−解説」という構造のとらえ方を積極的に論じること をせず、「は」を「とりたて」の章の中で扱っています。それも、三上と比べると はるかに小さな扱いです。 4 寺村が「シンタクスと意味」機Ν兇任靴燭海箸蓮格の類型・ボイス・テ   ンス・アスペクトなど、三上の不十分だった点である。それは、三上を補   い、シンタクスの研究を大きく進めたことになる。   靴痢屬箸蠅燭董廚發修Ω世┐襪里世、その中に「は」を含めてしまう。   主題−解説の構造を正面から議論することなく「単文編」3巻が終わって   しまうことになる。 「とりたて」は、それ自体はしっかり書かれていて、読み応えのあるものですが、 なぜか「は」もその中にうまく納められてしまいます。「は」の「意味」の側面は それでいいのかもしれませんが、「シンタクス」の面は取り残されているように思 います。「とりたて」というだけでは、「は」の重要な機能をとらえたことにはな らないでしょう。  単文編の3巻を書き終えた後、文の構造のとらえ方として、「主題−解説」につ いて何か書く予定だったのでしょうか。 5 三上も寺村も文を「コト」と「ムード」に分けた。その内容は同じか。   第2巻では確言・概言のムードしか扱われないが、論文「ムードの形式と   否定」では他のムードもすべて体系的に整理しようとしている。   三上の「ムード」の範囲は何か。   主題がムードであるとはどういうことか。「コト」からはみ出すのは確か   だが、動詞・副詞などのムードとの関係はどうなるのか。ムードの体系を   どう考えていたのか。これは寺村にもあてはまる問いである。 「主題はムードである」というのは、三上の最初からの考えです。     提示語は無論不定法外に立ち陳述作用に関係を持つ。 1942「一提試」 p.382  「陳述作用」つまりムードと「関係をもつ」のは確かだとしても、では、それ自 体はどういう性質の「ムード」なのか。  益岡はムードの段階を考えて、主題をその中に位置づけています。野田尚史も同 じようなことを書いていたと思います。が、どうも納得できません。  寺村は、ムードの全体像を記述することはできませんでしたが、ほんの少し、見 通しについては書いています。しかし、その中に主題は位置づけられていません。  文末以外のムードの要素というと、いわゆる「陳述の副詞」が思い浮かびますが、 もちろん主題は、そのようなムードの「呼応要素」ではありません。「主題−解説」 という、文全体の構造にかかわる主要な要素です。  さて、どう考えたらいいのでしょうか。 6 寺村の「文法(下)」は複文の文型を意味から分類し、それぞれの用法記   述をしている。三上もこのようなことを目指していたのか。   寺村の複文編二巻はどのような内容になるはずだったのか。   寺村の「連体修飾のシンタクスと意味」におけるシンタクスとは何か。何   を書いているか。   修飾に関しては第3巻の終わりで整理しようとしている。  寺村の複文編、これは考えるたびに残念に思います。もう少し、健康で長生きして ほしかったと思います。 7 三上は「複文」という用語を使わなかった。そして「かかり方の研究」が   必要だと言った。   寺村の複文論はそれを受けているか。   論文「複文認定の問題」の中で「単文2型」を立てたのは、三上の単式を   意識してのことだろうが、そこで複文と区切ることがよかったのかどうか。  三上が「複文」という用語を避けた理由については、いまだに真意がはっきりつか めません。「主語廃止論」から来るものだと解釈しているのですが、もしそうなら、 「主語」という用語の問題はかなり知れ渡っていますし、三上が望んだ「主題」とい う概念の重視も当然のこととなってきているので、「複文」という用語も使っていい ように思うのですが、三上はどう思うのでしょうか。  寺村は、複文という用語を抵抗なく使っています。しかし、その範囲は、一般の(日 本語教育などの)考え方とは少し違っています。(上に名前を挙げた「複文認定の問題」 という論文があります。)これは三上の論を受けたものだと思いますが、その根拠は、 私には納得できません。(この辺のことは、「複文について」の補説に書きました。) 8 三上は複文の一つ一つの文型を記述することはなかった。   用法の記述は三上にとって必要なことだったのか。   「構文」の中心となる章の題名は「区切り方」である。これが三上にとっ   ての複文のシンタクスの課題であった。   しかし、「区切り方」とは、シンタクスの中でどう位置付けられるのか。  三上は『日本語の構文』(1963)で、「複文」にあたる文型の分析をしていますが、 そこでのカギとなる用語は「区切り方」です。これについてはいつか複文のところ でとりあげたいと思っていますが、具体的に何を問題とし、どう議論をすればいい のかよく分かりません。 しかし、この「区切り方」が三上にとって、シンタクスの目標であったことは間違 いのないことのようです。『現代語法新説』で次のように書いています。   我々のセンテンスは、活用形から活用形へ係っては結び、結んでは係って、   大小の段落を作りつつついに文末に達する。それで、長短さまざまの文例   について、係り結びの様式を調べていくことが、構文論の最重要な課題に   なる。                          1955「新説」p.272 「最重要な課題」という言い方は、単なる強調ではないでしょう。 しかし、何をどう考えていけばいいのか。『序説』『新説』『構文』をゆっくり読 み直さなければなりません。 9 三上の単式・複式論と、南の階層論はその基本的発想が違うのだろう。   結果的には同じような指摘になっていても。それは何の違いか。   三上のは連体法を意識し、「開閉」とつながる。   南のは述語の構造・陳述論につながる。 南不二男の「従属句の構造」は評価が高い(寺村秀夫も、複文の研究として三上の論 と共に必ず紹介します)のですが、それと三上の論とは、表面的にはかなり似てい るのですが、その根本的な発想は違うように思います。そこのところがもっと明確 に言えるようになったら、どこかの補説に書きたいと思っています。 10 寺村以外の研究で、考慮すべきものは、南の研究と、変形生成文法による   ものである。それらは、三上(の目指したもの)を乗り越えているのだろ   うか。   生成文法におけるシンタクスの解明ということは、その目的とするところ   が大きく違う。   では、三上が目指していたものは何か。松下の「辞書と文法があれば」と   同じと言っていいか。寺村は、松下のこの言葉を引用している。三上もそ   う考えていたのか。   三上は、修辞法、そして作文のことを考えていた。 三上は、変形(生成)文法に大きな期待を寄せていました。井上和子の The Syntax of Japanese(1969) の書評を書いています。(なぜか『三上章論文集』には未収録です。) しかし、その後の変形文法による日本語文法研究は、おそらく、三上の期待した方向 とは違ったものになっているのだろうと思います。 生成文法についての私の考えは、また別にどこかに書こうと思います。 11 全体的な文法を書こうとしたのは、戦前の「大文法家」たちを別にすれば、   佐久間−三上−寺村の3人だろう。あるいは、それに鈴木重幸(1972)を加   えられるか。(ただし、三上は「記述的」ではない。)   寺村は、最後の全体的な記述文法家になるのかもしれない。それは、時代   的なものだろう。彼以後は、個別の文法事項をくわしく研究するか、全体   的な骨組みを理論化することに特化してしまう。特化せざるを得なくなっ   たのは、まさに寺村のせいである。寺村の研究を出発点にした教育が、学   生に寺村自身の本を越えることを要求したのである。   寺村の「シンタクスと意味」が出た当時は、その記述は十分な詳しさだと   考えられたが、現在から見るといかにも粗い記述に思える。そう思えるよ   うになったのも、この本が出た後、そこから出発できた研究の成果が、そ   の出発点をはるか遠くに感じさせるようになったからである。   現在なら、寺村も、あのような記述で済ませることは不可能だろう。格の   問題にせよ、ボイスにせよ。 ずいぶん大きな問題を書いてしまいました。 寺村の本、その研究成果は、三上とは別の意味で、日本語文法の研究の一つの 節目になっているのだろうと思います。 この辺のことは、いつか、もっと詳しく、引用や例をあげながら論じてみたい ことの一つです。 (鈴木重幸の本というのは『日本語文法・形態論』という本です。) (つづく) ◇「外国語と日本語」の話の最後のクイズの答え  おわかりの方が多いとは思いますが、「アイヌ語」です。昔から日本の中で 使われていた言語ですが、「日本語」ではありません。もちろん、「外国語」 でもありません。 (「沖縄語」を「日本語」とは別に考えるかどうかというのも、難しい問題 だとは思いますが、ここではそれは問題にしていません。)
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