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敬語の指針︰3

敬語の具体的な使い方


3.1︰敬語を使うときの基本的な考え方

3.2︰敬語の適切な選び方

3.3︰具体的な場面での敬語の使い方


3︰敬語の具体的な使い方

本章においては、敬語の具体的な使い方に関する様々な疑問や問題点に対して、どのように使えば良いのか、また、どのように考えれば良いのか、といった点を解説していく。全体の構成は、次のとおりである。

説明に当たっては、提示された問題点に対して、【解説1】【解説2】に、適宜、分けて述べる場合がある。【解説1】は、敬語の使い方を端的に述べたものであり、【解説2】は、【解説1】を理解するための基本的な考え方や、背景となる事柄についての補足情報等を記述したものである。


3.1︰敬語を使うときの基本的な考え方


3.1.1︰現代の敬語は、相互尊重を基本として使う
【1】
【解説】

第1章において述べたように、敬語は、古代から現代に至る日本語の歴史の中で、一貫して重要な役割を担い続けているが、敬語の持つ意味は時代によって変わっている。敬語が人間の上下関係を表すことと密接に関連している時代もあった。しかし、現代社会においては、その人を尊重しようという気持ちを表すこと、その人の立場に配慮すること、その人と親しいか親しくないかといった親しさの程度を示そうとすることなどの意識に基づいて使われていると言ってよい。

すべての人は基本的に平等である。したがって、一方が必要以上に尊大になったり卑下したりすることなく、お互いに尊重し合う気持ちを大事にしなければならない。このような「相互尊重」の気持ちを基本として敬語を使うことが、現在も、また将来においても重要であろう。


3.1.2︰敬語は社会的な立場を尊重して使う
【2】
【解説】

まず、確認しておきたいことは、尊敬の気持ちと敬語との関係である。敬語は、敬意に基づき選択される言葉であるが、敬意は必ずしも尊敬の気持ちだけではない。その人の「社会的な立場を尊重すること」も敬意の現れの一つである。仮に尊敬できないと感じられる人であっても、その人の立場・存在を認めようとすることは、一つの「敬意」の表現となり得るのであり、その気持ちを敬語で表すことは可能なのである。それは、自分の気持ちを偽っていることにはならない。むしろ、敬語を使うべき場面で敬語を使わないことは、社会人として、相手に礼を失するおそれがあることに留意すべきである。敬語の役割の一つには「社会人としての常識を持っている自分自身」を表現するという側面もある。自分自身の尊厳のためにも敬語は使われると言うことができる。社会人にとって、敬語を使うことの意義は、そこにも見いだせる。

【3】
【解説】

「敬語は年長者に対して使うものだ。」と言われることが多いが、実際には、例えば、取引先など異なる組織にいる相手であれば、年齢にかかわらず使われているものである。また幾ら若いといっても、自分の子供の担任をしている教師であれば、その立場に対する配慮が必要になる。

敬語は、単なる上下関係からでなく、その相手と自分との間の立場や役割から考えて使う場合もある。この中には、仮に自分が年長であっても、相手を立てて使う場合も含まれる。


3.1.3︰敬語は「自己表現」として使う
【4】
【解説】

社会生活において、敬語が常に必要になるわけではない。相手や状況によっては、敬語を使わない方が、かえって自分らしさが表現できたり、相手との心の交流が円滑に進んだりする場合もある。そのようなときに、あえて敬語を使わないという判断を自分自身で行うことは適切なことである。

一方で、相手や状況によっては、敬語を使わなかったために、相手を尊重する気持ちが十分に伝わらない場合もあり、そのために相手や周りの人々に不愉快な思いをさせてしまうこともある。敬語を使わない表現を選ぶのか、それともここは敬語を使うのか、相手との関係やその場面の状況をよく考えた上で、自らの判断で決めることが必要である。これは、第1章でも述べた「自己表現」の大切さが浮かび上がる瞬間であると言ってよい。


3.1.4︰敬語は過剰でなく適度に使う
【5】
【解説】

慇懃無礼と言われるように、言葉は丁寧であるにもかかわらず、態度は無礼であいんぎんるということがある。敬語をたくさん使えば丁寧になるというわけではない。敬語を使う際に、相手に対する配慮の意識がなく、むしろ見下しているような気持ちがあるとすれば、幾ら敬語を使っていても失礼に感じられてしまうものである。また、表現している内容自体が敬語を使うことに合わないような場合もある。失礼な内容については、敬語を使ったからといって、その失礼さが消えるわけではない。

ただし、敬語をたくさん使っているから変だ、などと決め付けることはできない。本当に丁寧な言葉遣いをする人は、そうではない人から見れば、過剰に敬語を使っているように見えてしまうこともある。自分の基準だけで、相手や第三者の言葉遣いが丁寧過ぎる、あるいは逆に、失礼だなどということは決められない。自分の基準だけが正しいと思い込んで、それを他人に押し付けるようなことは、慎むべきである。


3.1.5︰敬語は自分の気持ちにふさわしいものを選んで使う
【6】
【解説】

敬語を使うことによって、相手にかかわるものは、大きく、高く、立派で、美しいと表すことができる(御高配、御尊父、玉稿など)。反対に、自分にかかわるものは、小さく、低く、粗末だと表すこともできる(小社、愚見、拙稿など)。しかし、それは飽くまでも言葉としての約束事を表そうとするものであって、必ずしも実際にそのように認識しているというわけではない。

このような言い方は、伝統的になされているものであり、卑屈な言い方というよりも、自分にかかわるものを小さく表すことによって、相手に対する配慮を示す意識で使われているものだと考えられる。したがって、このような表現の形が「自己表現」として、自分の気持ちに合っていると思う場合には使えば良い。

このような敬語のほかにも、自信を持って作った料理でも、「お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞ。」といった表現などがある。これも、おいしくないのに勧めるということではなく、自分の判断を押し付けないという意味で相手に対する配慮を示したものである。もちろん、「今日はおいしくできたと思いますので、召し上がってみてください。」というように、自分の判断を率直に表すことで、相手に対する配慮を示すことも可能である。


3.2︰敬語の適切な選び方


3.2.1︰尊敬語にするための形の問題
【7】
【解説1】

規範的には、「適切な敬語」だとは位置付けられてこなかった形である。したがって、現時点では、「利用される・利用なさる・御利用になる・御利用なさる」などが適切な形だと言える。

【解説2】

「御利用される」を使う人は、その言葉の成り立ちを「御利用する+れる」ととらえるのではなく、「御利用+される」という意識で使っていると考えられる。後者のような成り立ちの言葉として受け止めるならば、「御利用される」は尊敬語としてあり得る形だと言える。

ただし、「御利用される」の「御…さ」の部分が、「ご…する」という謙譲語Ⅰの形であり、これに「れる」という尊敬語が付いた<謙譲語Ⅰ+尊敬語>の組合せ、すなわち「御利用する+れる」の形だと見られることなどから、規範的には、適切な敬語ではないとする考え方が有力である。

【8】
【解説1】

この場合には、「御乗車できません」ではなく、「御乗車になれません」が適切な形である。あるいは、「御乗車いただけません」や「御乗車はできません」という敬語表現も可能である。

【解説2】

「お(ご)…できる」というのは、謙譲語Ⅰの形である「お(ご)…する」の可能形である。「自分が届けることができる」ということであれば「お届けできる」、「自分が説明できる」ということであれば「御説明できる」で良いが、ここは、相手(=乗客)の行為なので尊敬語を使うべきところである。尊敬語の可能形は「お(ご)…になれる」であり、ここでは、その否定の形を使った「御乗車になれません」が適切な形だということになる。なお、「御乗車はできません」と言った場合には、「御乗車」と「できません」のつながりが、助詞「は」によって分断されるために、「お(ご)…できる」の否定形とはならず、敬語の形としては問題のない表現となる。

また、特に接客業・ビジネスなどの場合、「(客である)あなたができる」ということを客観的に「可能だ」と言うだけでなく、「あなたにしてもらえる」というように自分が恩恵を受けるような表現に変えることで、敬意を表す形にすることがある。それが、「お(ご)…いただける」という敬語の形である。この形を使えば、「御乗車いただけません」という言い方になる。

【9】
【解説1】

「分かりにくい」や「読みやすい」といった言葉を尊敬語にするなら、それぞれ、「お分かりになりにくい」、「お読みになりやすい」とすれば良い。

【解説2】

「分かりにくい(分かり+にくい)」「読みやすい(読み+やすい)」など、「動詞+形容詞」の形を取るものを尊敬語にする場合には、動詞の部分だけを尊敬語にすれば良い。「分かる」なら「お分かりになる」、「読む」なら「お読みになる」として、それに「~にくい」「~やすい」を付ければ良いわけである。


3.2.2︰尊敬語と謙譲語Ⅰの混同の問題
【10】
【解説1】

「担当者に伺ってください」の「伺う」は謙譲語Ⅰである。したがって、客の動作に用いる敬語ではない。

客を立てるためには、尊敬語を用いる必要がある。この場合は、「担当者にお聞きください。」あるいは「担当者にお尋ねください。」とすれば良い。

【解説2】

「伺う」は謙譲語Ⅰであって、「聞く・尋ねる」という動作の<向かう先>を立てる敬語である。したがって、「受付の人」側の人物である担当者を立ててしまうことになり、尋ねた客を立てる敬語とはならない。

同様に、「お聞きする」「お尋ねする」といった敬語も、「伺う」と同じ謙譲語Ⅰである。したがって、「担当者にお聞きしてください。」「担当者にお尋ねしてください。」なども「伺う」と同様に、客の動作に対しては用いることができない。

【11】
【解説1】

課長が持っていくかどうかを尋ねたかったのであれば、「課長、そのファイルも会議室にお持ちになりますか。」と、尊敬語を用いるのが良い。

【解説2】

「お持ちする」は、謙譲語Ⅰである。したがって、自分が持っていくかどうかを上司である課長に尋ねたことになってしまう。だからこそ、課長もそのように反応したのであろう。これも、尊敬語を使うべきところ謙譲語Ⅰを用いてしまったために生じた問題である。

【12】
【解説】

「御在宅する」に問題がある。「ご…する」は謙譲語Ⅰを作る形式だからである。この場合は、在宅している相手を立てて表現したい場合であるので、「御在宅なさる必要…」あるいは、より簡潔に「御在宅の必要…」などと尊敬語を用いるべきである。


3.2.3︰謙譲語Ⅱ(丁重語)に関する問題
【13】
【解説1】

「参る」は謙譲語Ⅱである。つまり相手に対して改まって伝えるための敬語であって、話の中に出てくる第三者を立てるための敬語ではない。したがって、この言い方では、田中先生を立てることはできない。田中先生を立てるのであれば、「田中先生のところに伺います。」と言えば良い。「伺う」は謙譲語Ⅰであり、<向かう先>の人を立てることができるからである。

【解説2】

「明日は、田中先生のところに参ります。」と言ったとき、「参る」という敬語を使えば、第三者である「田中先生」を立てる気持ちが表現できると感じている人も多いようである。もちろん、「田中先生」を相手にして「田中先生のところに参ります。」と言えば、相手である田中先生に対して丁重に述べることになるため、結果として田中先生に敬意を示すことになる。このような使い方との関連から、加藤先生を相手に述べたとしても、田中先生を立てているように感じられるのだろう。

しかし、例えば、「田中先生」を「弟」に入れ替えて、「弟のところに参ります。」と言ったとき、「弟」を立てていると感じる人はいないだろう。仮に「参る」が話の中に出てくる第三者を立てる敬語だとすれば、自分の「弟」には使うことができないはずである。ところが、「弟のところに伺います。」は、明らかな誤用であるのに対して、「弟のところに参ります。」は問題のない敬語の使い方である。「参る」は、飽くまでも「加藤先生」に対して丁重に述べる敬語として働いているのであって、話の中に出てくる第三者である「弟」を立てる働きはないのである。したがって、同様に、第三者である「田中先生」も立てる働きはないと言えるわけである。

以上述べたことを整理すると次のようになる。(いずれも、相手は加藤先生。)

①田中先生のところに参ります。→加藤先生に対して丁重に述べたもので、田中先生を立てているわけではない。
②弟のところに参ります。→加藤先生に対して丁重に述べたもので、自分の弟を立てて述べているわけではない。全く問題のない用法。
③田中先生のところに伺います。→田中先生を立てて述べたもの。
④弟のところに伺います。→自分の弟を立てて述べることになるため、誤用となる。

【14】
【解説1】

「参る」や「申す」は、謙譲語Ⅱに当たる敬語である。しかし、「御持参ください」、「お申し出ください」、「お申し込みください」などといった表現の中に含まれる「参る」や「申す」は、謙譲語Ⅱとしての働きは持っていないと言ってよい。したがって、これらの表現を「相手側」の行為に用いるのは問題ない。

【解説2】

「御持参ください」「お申し出ください」という表現が気になる場合には、「お持ちください」「おっしゃってください」などと言い換えれば良い。「お申し込みください」は、状況によっては「御応募ください」などに代えることができる。

【15】
【解説】

「申し伝えておく」というのは、「そのように部下に言っておく」あるいは「そのように部下に伝えておく」ということを、「申す(謙譲語Ⅱ)」という敬語を使って表現したものである。つまり、ここでは、「相手」である社長に対して改まって述べたものであって、その<向かう先>である「部下」を立てるものではない。したがって、問題のない使い方である。


3.2.4︰自分側に「お・御」を付ける問題
【16】
【解説】

自分側の動作やものごとなどにも、「お」や「御」を付けることはある。自分の動作やものごとでも、それが<向かう先>を立てる場合であれば、謙譲語Ⅰとして、「(先生を)お待ちする。」「(山田さんに)御説明をしたい。」など、「お」や「御」を付けることには全く問題がない。また「私のお菓子」など、美化語として用いる場合もある。

「お」や「御」を自分のことに付けてはいけないのは、例えば、「私のお考え」「私の御旅行」など、自分側の動作やものごとを立ててしまう場合である。この場合は、結果として、自分側に尊敬語を用いてしまう誤用となる。


3.2.5︰「いただく」と「くださる」の使い方の問題
【17】
【解説1】

「御利用いただく」は謙譲語Ⅰ、「御利用くださる」は尊敬語である。つまり、「(自分側が相手側や第三者に)御利用いただく」、「(相手側や第三者が)御利用くださる」という基本的な違いがある。しかし、立てるべき対象は、どちらも同じであり、また、恩恵を受けるという認識を表す点も同様であるため、どちらの言い方も適切に敬語が用いられているものである。

【解説2】

謙譲語Ⅰの「御利用いただく」の使い方には、問題があると感じている人たちもいる。その理由としては、「利用する」のは相手側や第三者なのだから、尊敬語である「御利用くださる」を使うべきだということなどが挙げられているようである。

しかし、「御利用いただく」は、「私はあなたが利用したことを(私の利益になることだと感じ)有り難く思う」という意味を持った敬語である。「利用する」のは相手側や第三者、「御利用いただく」のは自分側、という点がやや理解されにくい敬語であるが、自分側の立場から相手側や第三者の行為を表現した敬語であり、敬語の慣用的な用法として特に問題があるわけではない。ただ、このような「いただく」の用法に対しては、その受け止め方に個人差があり、不適切な用法だと感じている人たちもいる。

また、「御利用いただきまして…」と「御利用くださいまして…」のどちらが適切か、どちらが丁寧か、という判断や感じ方についても個人差が大きいようであるが、基本的には、どちらもほぼ同じように使える敬語だと言ってよい。


3.2.6︰「させていただく」の使い方の問題
【18】
【解説1】

「(お・ご)…(さ)せていただく」といった敬語の形式は、基本的には、自分側が行うことを、ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い、イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある場合に使われる。したがって、ア)、イ)の条件をどの程度満たすかによって、「発表させていただく」など、「…(さ)せていただく」を用いた表現には、適切な場合と、余り適切だとは言えない場合とがある。

【解説2】

次の①~⑤の例では、適切だと感じられる程度(許容度)が異なる。

上記の例①の場合は、ア)、イ)の条件を満たしていると考えられるため、基本的な用法に合致していると判断できる。②の例も同様だが、ア)の条件がない場合には、やや冗長な言い方になるため、「発表いたします。」の方が簡潔に感じられるようである。③の例は、条件を満たしていると判断すれば適切だが、②と同様に、ア)の条件がない場合には「休業いたします。」の方が良いと言えるだろう。④の例は、ア)とイ)の両方の条件を満たしていないと感じる場合には、不適切だと判断される。⑤の例も、同様である。ただし、④については、結婚式が新郎や新婦を最大限に立てるべき場面であることを考え合わせれば許容されるという考え方もあり得る。⑤については、「私は、卒業するのが困難だったところ、先生方の格別な御配慮によって何とか卒業させていただきました。ありがとうございました。」などという文脈であれば、必ずしも不適切だとは言えなくなる。

なお、ア)、イ)の条件を実際には満たしていなくても、満たしているかのように見立てて使う用法があり、それが「…(さ)せていただく」の使用域を広げている。上記の②~⑤についても、このような用法の具体例としてとらえることもできる。その見立てをどの程度自然なものとして受け入れるかということが、その個人にとっての「…(さ)せていただく」に対する「許容度」を決めているのだと考えられる。


3.3︰具体的な場面での敬語の使い方


3.3.1︰自分や相手の呼び方の問題
【19】
【解説1】

基本的には、「僕」は、男性が日常の生活で用いる言葉であり、「わたし」は、やや改まった場面で用いる言葉である。「私(わたくし)」は、「わたし」よりも更に改まった公的な場面などで用いられる。したがって、例えば、式典や会議の場、面接試験などのときには、「僕」よりも、「わたし」あるいは「私(わたくし)」を用いた方が、その場面にふさわしい選択だと言える。

【解説2】

自分のことをどう呼ぶかについては、場面に応じたふさわしい言い方がある。ただし、必ずこうしなければいけないという決まりがあるわけではない。実際には、どういう場面においても、「僕」(あるいは「わたし」)とだけ呼んでいる人もいるだろう。また、「おれ」「僕」「わたし」「私(わたくし)」を場面に応じて使い分けている人もいるだろう。

自分自身のことをどういう言葉で呼ぶかという問題は、自分をどういう自分として表現したいのか、ということとも深く関連している。「おれ」「僕」「わたし」「私(わたくし)」など、自分を呼ぶ様々な言葉の中から、自分を表すのにふさわしいと思える言葉を選択すること、また、状況に応じてそれらを使い分けること、あるいは使い分けないこと、そうしたことが自分をどう表現しようとするのかという、「自己表現」の在り方につながっているのである。

【20】
【解説1】

「あなた」は、本来は遠くを指し示す「あなた(彼方)」という言葉から生じ、敬意の高い敬語であった。しかし、現在では、年齢や立場が同等、あるいは下位にある人に対して使うことが一般的となっており、上位者に対しては用いにくくなっている。また、相手の名前を示さずに呼ぶことで、中立的な表現となる反面、やや冷たい響きが感じられると言える。したがって、先輩に対する呼び方としては、適切だとは言えないだろう。

【解説2】

「あなた」には【解説1】で述べたような性質があることを考慮すれば、名前を知っている相手に対しては名前を呼ぶことによって、名前を知らない相手に対してはその人の動作などに敬語を使うことによって、「あなた」を使わないようにすることもできる。例えば、「あなたはどう考えますか。」ではなく、「佐藤さんはどう考えますか。」、「お考えをお聞かせください。」などという言い方である。

一方、「あなた」には中立的な語感があることから、例えば、会議の席上や授業中、あるいは面接試験などでは、比較的多く用いられている。「話し手」と「聞き手」の双方が、お互いにその点を理解しているのなら、「あなた」を使っても、特に問題はないだろう。なお、夫婦間の会話などでは、中立的な語感から離れて、親しみのある言葉として用いられている。

【21】
【解説】

「○○先生」ではなく、「○○様」と書くこと自体は誤りではないが、自分が生徒や学生、あるいは生徒や学生の親などの立場から書く場合には、「○○先生」の方が適切だと言える。「○○中学校 山田一郎先生御中」といった書き方は、不適切である。「○○中学校 山田一郎先生」とすれば良い。「御中」というのは、具体的な人ではなく、その組織や機関の中にいる関係者へあてる、という意味を表す「脇付け」である。「山田一郎」という氏名が明らかなのであれば、その点と矛盾するので、不適切な表現になる。


3.3.2︰「ウチ・ソト」の関係における問題
【22】
【解説】

ふだんは、「お父さん・お母さん・おじいさん・おばあさん・伯父(叔父)さん・伯母(叔母)さん・お兄さん・お姉さん」などと話し掛けている相手を、「ウチ扱いの人物(=自分側の人物)」とする場合には、「父・母・祖父・祖母・伯父(叔父)・伯母(叔母)・兄・姉」と言うことになる。例えば、改まった面接などの場面で、自分側について言及するときには、基本的に「父・母」のように言う方が良い。

ただし、日常生活の場で、相手が親しい関係のときには、「父・母・祖父・祖母」などの言葉を使うと、やや改まり過ぎていると感じられるかもしれない。そのときには、状況に応じて、「父親・母親・おやじ・おふくろ・おじいちゃん・おばあちゃん」などといった言葉を使い分ければ良いだろう。

【23】
【解説1】

この場合、「ウチ・ソト」の意識に基づけば、同僚の田中教諭は「ウチ」の人であり、保護者を相手とする場合には「田中先生はおりません。」ではなく、「田中はおりません。」と伝えた方が良い。

【解説2】

同僚の田中教諭に関して「田中先生はおりません。」と敬称を用いた表現は、身内の人物は立ててはいけないという「ウチ・ソト」の意識からすれば問題がある。しかし、文化庁の「国語に関する世論調査」によれば、生徒の保護者に対しては「田中」ではなく、「田中先生」という言い方を支持する人が多い。学校では、「ウチ・ソト」の意識よりも、生徒を基準にして、その教師であるという点を優先させるからだと考えられる。なお、「田中」ではなく、「田中教諭」と職名で呼ぶ方法もある。この場合は、「ウチ・ソト」の意識から離れ、中立的な言い方になると言えよう。

【24】
【解説1】

「田中部長」をウチ扱いにする(自分側の人物として扱う)ときには、「田中」と呼ぶことに問題はない。ほかにも、「部長の田中」というように、「部長」を職階として示した上でウチ扱いにして呼ぶことができる。ただし、「田中部長」と呼ぶことは、ウチ扱いにした呼び方にはならないので、不適切である。

【解説2】

上司である田中部長のことを「田中」と言うのは、心理的な抵抗はあるかもしれないが、飽くまでも「ウチ・ソト」の関係でとらえた表現なのであって、田中部長を呼び捨てにすることとは全く異なる。

改まった場面では「弊社の部長」、ややくだけた場面では「うちの部長」などと言うことで、「田中」という名前に触れずに表現することもできる。その場合の「部長」は、単に職階を示していると考えられる。

【25】
【解説1】

社員だけの忘年会などの場合は、社長を立てる敬語を用いて「社長からごあいさつを頂きます。」と言えば良い。また、社外の人が多くいる会の場合には、その人たちを立てる敬語を用いて「社長からごあいさつを申し上げます。」と言えば良い。

【解説2】

「社長からごあいさつを頂きます。」の、「いただく」は謙譲語Ⅰであり、社長を立てる敬語である。「ごあいさつ」も社長を立てる尊敬語となる。社員だけの忘年会などの場合には、会社内での立場だけを考慮すれば良いので、飽くまでも社長は立てるべき存在となる。したがって、「社長からごあいさつを頂きます。」が適切な表現となる。

一方、「社長からごあいさつを申し上げます。」の「申し上げる」も謙譲語Ⅰであるが、こちらは<向かう先>となる人たちを立てる敬語である。また、ここでの「ごあいさつ」は<向かう先>となる「あいさつを聞く人たち」を立てる謙譲語Ⅰである。

社外の人が多くいる場合には、会社のウチ・会社のソトといった関係が生じるので、「ウチ」の社長は立てない方が良い。したがって、「社長からごあいさつを申し上げます。」の方が適切な表現になる。

【26】
【解説1】

特に会社などで、同じ系列にいる二人の上位者に対して敬語を使う場合、この例のように、係長である自分が、部長を相手として、課長のことを伝えるときには、3人の立場や関係を考えて敬語を使う必要がある。課長の指摘に従えば、課長を立てずに、相手である部長に対して改まった表現を用いて、「課長は、このように申しておりました。」と言えば良いことになる。

【解説2】

第2章で述べたように、相手である部長から見れば、課長は「立てる対象」とは認識されない。したがって、係長である自分は、上司ではあっても課長を立てずに、部長に対して改まった気持ちで「課長は、このように申しておりました。」のように謙譲語Ⅱを用いて表現するのが良いとする考え方がある。また同じ課に所属する課長をウチ扱いにするという意識からも、同様に「申しておりました」という表現が選ばれることになる。この場合は、「(係長・課長)→(部長)」という関係になる。

これに対して、係長が課長を立てれば、それによって更に上の部長も立てることになるので、「課長は、このようにおっしゃっていました。」と、課長に対して尊敬語を用いてもよいとする考え方もある。この場合には、「(係長)→(課長・部長)」という関係になる。ただし、その場合でも、課長より部長を更に立てるため、課長に対する敬語を抑え気味にして、例えば「課長は、このように言われていました。」といった程度の敬語を用いる配慮をすることも考えられる。


3.3.3︰「ねぎらい」と「褒め」の問題
【27】
【解説1】

仕事について教えてくれた上司に対しては、「どうもありがとうございました。(大変助かりました。)」と感謝の表現にすれば良い。また、書類作成に追われた上司に対しては、「(本当に)お疲れ様でございました。」などと言えば良いだろう。

【解説2】

「御苦労様」は、基本的には、自分側のために仕事をしてくれた人、例えば、配達をしてくれた店員などに対して、「ねぎらい」の気持ちを込めて用いる表現である。(なお、このような場合に「お疲れ様」と言うのは不自然である。)ねぎらいは、上位者から下位者に向けたものとなるため、目上の人に対しては、「御苦労様(でした)」を用いない方が良い。

これに対し、「お疲れ様」は、「ねぎらい」の気持ちを込めて使われる表現ではあるが、一緒に仕事をした後など、お互いに声を掛け合うような場合にも多く用いる表現である。(なお、このような場合に「御苦労様」と言うのは不自然である。)そのような状況であれば、「お疲れ様」ではなく「お疲れ様でございました」などを用いるというような丁寧な言い方であれば、だれに対しても使える表現である。したがって、仕事上の上司であっても使うことができる。

要するに、時間外に仕事を教えてくれた上司に対しては、「御苦労様でした」というねぎらいの言葉ではなく、「ありがとうございました」と感謝の気持ちを表す言い方に変えた方が良く、一緒に書類作成に追われていた上司に対しては、「お疲れ様でございました」と、気持ちを込めて表現すれば良いわけである。

ただし、このような定型的な表現ではなく、例えば「おかげ様で仕事が少し分かるようになってきました。」などと、別の観点に立った表現を使うことで、上手に自分の気持ちを相手に伝えることも可能である。

【28】
【解説1】

基本的には、褒めたい気持ちを表明すること自体に問題があるわけではない。しかし、褒めるのにふさわしい相手、状況、事柄なのかについては、よく考える必要がある。例えば、講演会の講師のネクタイを褒めること、仕事を教えてくれた上司にその教え方を褒めることなどは、状況によっては必ずしも適切とは言えない。前者では、講演の内容について、分かりやすかった、参考になったというような点を中心に伝えること、後者では、教え方の良し悪しに触れるのではなく、教えてもらったこと自体に対する感謝の気持ちを伝えることの方が、より適切な表現だと言えるだろう。

【解説2】

相手の身に付けるもの、持ち物、容姿などを褒めることができるのは、基本的には、家族や友人など、親しい関係の人同士であろう。目上の人や特に親しくない人を褒めるのは、なれなれしいと思われることにもなる。したがって、それほど親しくない講師のネクタイを褒めることは、適切だとは言えないだろう。

また能力、技術などを褒めることは、相手の専門的な能力、技術について評価することにつながる。その意味で、評価する立場にない者が能力や技術について褒めることは、適切な表現だとは言えない。特に自分が教えを受けた立場であるなら、褒めるのではなく、「分かりやすく教えていただき、ありがとうございました。」などと述べることで、感謝やお礼の気持ちを率直に伝えることができる。

【29】
【解説1】

「とんでもございません」(「とんでもありません」)は、相手からの褒めや賞賛などを軽く打ち消すときの表現であり、現在では、こうした状況で使うことは問題がないと考えられる。

【解説2】

謙遜して、相手の褒めや賞賛などを打ち消すときの「とんでもございません」(「とんでもありません」)という言い方自体はかなり広まっている。この表現は使わない方が良い、と言われる大きな理由は、「とんでもない」全体で一つの形容詞なので、その「ない」の部分だけを「ございません」に変えようとする発想に問題があるということである。したがって、その立場に立てば、「とんでもない」を丁寧にするためには、「とんでもないです」「とんでもないことでございます」あるいは「とんでものうございます」にすれば良い、ということになる。

ただし、「とんでもございません」は、「とんでもないことでございます」とは表そうとする意味が若干異なるという点に留意する必要がある。問いの例は、褒められたことに対し、謙遜して否定する場合の言い方である。したがって、「とんでもございません」を用いることができるが、この場面で、「とんでもないことでございます」と言ったのでは、「あなたの褒めたことはとんでもないことだ」という意味にも受け取られるおそれがあるので、注意する必要がある。

また、例えば、あの人のしていることはとんでもないことだ、と表現したい場合には、「あの方のなさっていることはとんでもございませんね。」などとは言えないが、「とんでもないことでございますね。」などは普通に用いることができる。


3.3.4︰能力などを直接尋ねることの問題
【30】
【解説1】

「お話になれますか」、「お出来になりますか」、「お飲みになりたいですか」、「いらっしゃるつもりですか」などは、敬語の形自体に問題はないが、上位者に対して、その能力、意思、願望などを直接尋ねているという点に問題がある。

【解説2】

立場的に下位にいる者が上位にいる者に対して、「フランス語が話せるか」と直接問うことは、相手の能力を測るような趣旨に取られてしまう。また、何を好むか、何がしたいか、何をするつもりか、などを問うことは、その上位者の心の内部に踏み込むことになると言えるだろう。なお、言い方や態度によっては、上位者が下位者に対して問う場合にも、同様の問題があると言える。

ただし、直接的な表現を避けることによって問い掛けることは可能である。例えば、「フランス語もお話しになりますか。」と事実を問う形にすることで、また2番目の例で言えば「コーヒーをお飲みになりますか。」という表現で、あるいは、その意図がコーヒーを入れて供したいということであれば、「コーヒーいかがですか。」という表現で、それぞれ十分にその意図を表すことができるだろう。最後の例の場合は「課長は、夏休みにはどちらへいらっしゃいますか。」という言い方であれば、それほど抵抗なく受け入れられるだろう。


3.3.5︰依頼の仕方の問題
【31】
【解説1】

自分が責任者でない場合には、「この仕事をしていただきます。」のように自分が決定権を持っているような表現ではなく、「この仕事をしていただけますか。」など相手に判断をゆだねるような表現を用いる方が良いだろう。ほかにも、「これお願いできますか。」「お願いしてもいいですか。」などの表現を用いることで、きつい言い方だという印象を持たれずに済むだろう。

【解説2】

複数の人たちで仕事をしているとき、その仕事の方針や方向などを決めるのがだれか、ということは、言語表現を選択するためにも大切な要素となる。明らかに決定権を持っている人はそれを打ち出してよいのだが、その場合でも、自分が決めるから他の者は従えという態度を取ったり、そのように表現したりすることは、丁寧さを欠くことになる。決定権がある場合にも、すべてを自分が決めてしまうのではなく、相手や第三者の意思も尊重する、という姿勢を示した表現の方が丁寧になる。

特に、決定権のない人が決定権を持っているように振る舞うことには問題がある。例えば、「はい、次に進みましょう。」と進行に関する発言をその会のリーダーや司会以外の人が言うと失礼になる。仕事以外でも、例えば、「どうぞ、召し上がってください。」と勧めることを、招待された客が口にするのは配慮に欠けた行為である。

なお、決定権を持つことができるのは、必ずしも常に上位者であるとは限らない。その場合、決定権を持たない上位者は、決定権を持つ下位者に対して配慮する必要があるが、一方で、決定権を持つ下位者から決定権を持たない上位者への配慮も同時に必要である。

【32】
【解説】

これは、何の前置きもなく、突然頼むという点が、行動の点でも、言語表現の点でも問題であったと言えよう。もちろん、いつも仕事を依頼し合っているような関係であれば、「これ、お願いします。」で十分な場合もある。しかし、何かを頼むということは、相手には負担の掛かることだと考えられる。相手に負担を掛けているのだ、という意識を持って、その気持ちを表明することが、相手に対してより配慮した表現になると言えるだろう。

この場合は、「すみませんが」や「忙しいところ申し訳ないけど」などの前置きの表現があるだけで、随分印象が違ってくる。また、依頼することが当然であるかのように受け取られる「お願いします。」という言い方よりも、「これ、お願いできますか。」「お願いしてもいいですか。」などの婉曲的な表現を使った方が相手に対する配慮を確実に表すことができると言えよう。

【33】
【解説1】

基本的に「~てもいい(ですか)」「~てもよろしいですか」などは,自分のすることについて,相手の許可を求める言い方である。しかし,「取ってもらってもいい(ですか)。」という表現は自分が取るのではなく,相手が取ることを要求しているものである。したがって,「取ってちょうだい。」や「取ってください。」という依頼や指示の表現と同じ内容を表すものである。そのように,本来なら依頼や指示の表現で済むところを,許可を求める表現に変えているということになり,その分だけ,「回りくどい」印象を与えるのだと言える。

指示や依頼が簡潔にできる状況であれば,こうした回りくどい印象を与える表現は用いない方が良いだろう。

【解説2】

このような、依頼や指示を「許可を求める形」で行う表現は近年よく耳にするようになった。なぜ、このような回りくどい言い方をわざわざするのだろうか。例えば、「取ってちょうだい。」「取ってください。」といった表現は、相手に直接働き掛けているものである。それに対して、「取ってもらってもいい(ですか)。」という表現は、(自分が)取ってもらえるかどうかを尋ねる形に変わっているのである。そうすることで、相手に対して押し付けるような印象をなくし、相手への配慮を表そうとするのではないかと考えられる。これが、回りくどい、言い換えれば、婉曲的な表現をしようとする主たる理由であろう。

これは、「~てもよろしいですか。」についても同様である。「書いていただいてもよろしいですか。」も、「書いていただけますか。」という依頼の敬語表現と伝えたいことは同じ内容だと言えるが、相手に許可を求める表現に変えることで、より丁寧な言い方にしようとしたのだと考えられる。


3.3.6︰いわゆる「マニュアル敬語」の問題
【34】
【解説1】

「御注文の品はおそろいになりましたでしょうか。」という表現は、敬語が誤って使われている。「お…になる」というのは尊敬語の形であるため、「おそろいになる」では「御注文の品」を立てていることになってしまうからである。したがって、「御注文の品は、そろいましたでしょうか。」、あるいは「御注文の品は、以上でよろしいでしょうか。」などと言えば良いだろう。

【解説2】

マニュアル敬語は、言葉の上のサービスの質を、ある水準に保つために考えられている。したがって、そのような敬語を使う人が、それぞれの言葉に、どのような気持ちが込められているのかをよく考えれば、その有効性が期待できるものである。ただし、それを真に生かすためには大切な条件がある。使う側、また指導する側が、マニュアルという「型」を基礎としながらも、絶えず表現について考え、工夫を重ねていく姿勢を持つことである。マニュアル敬語にかかわる問題の多くは、この実践の欠如に起因すると言えるだろう。

しかし、こうしたマニュアル敬語は、アルバイトの若者や、彼らが働くレストランやコンビニエンスストアなどだけに特有の問題では決してない。敬語の使い方に問題はなくても、お客の顔を全く見ないまま接客を済ますなど、態度が言葉を裏切っている大人も世の中には少なくない。形だけの敬語では、敬意は伝わらない。相手の表情や動作ににじみ出た気持ちを察知する、相手の言葉にしっかり耳を傾ける、そしてその場面の意味と相手の気持ちを十分に踏まえた上で、敬意を言葉に乗せて表す、そのような姿勢を持つことが何よりも大切だと言えよう。


3.3.7︰敬語使用における地域差の問題
【35】
【解説1】

ここでは、「行かれますか。」よりも「いらっしゃいますか。」の方がふさわしかったと思われる。「行かれますか。」も尊敬の表現として決して間違いではないが、東京圏における尊敬語としては「行かれる」よりも「いらっしゃる」の方が、敬語の程度が高く、より一般的だと言える。

【解説2】

同じ敬語であっても、その使用状況や意識については、様々な地域的な違いがある。「行かれる」で先生に対する十分な配慮が表せる地域もあれば、そうでない地域もある。地域の言葉には、それぞれに敬語の仕組みが備わっており、それを理解し尊重することが大切である。

平成9年1月に実施した文化庁の「国語に関する世論調査」によれば、「あしたの会議で意見を言うか」という下線部分を上位者に尋ねる場合、どのような敬語表現が最も多く使われているかは地域ブロックによってかなり異なることが分かっている。例えば、関東では「おっしゃいますか(41.2 %)/言われますか(34.1 %)」であるのに対して、近畿では「おっしゃいますか(40.4 %)/言われますか(48.1 %)」と逆の結果が出ている。なお、関東ブロックのうち東京都区部に限ってみると、「おっしゃいますか(47.1 %)/言われますか(34.3 %)」と「おっしゃいますか」を選択する割合は更に高い。また、「言われますか」については、近畿ブロックだけでなく、西日本全域で最も高く選択されていることも明らかになっている。

【36】
【解説1】

各地の方言には、全国共通語の敬語にはない、特有の敬語(方言敬語)がある。この「はる」を付けることによって、話し手は相手とのほどよい距離感を作ることができる。すなわち当地の人にとっては、「どちらからいらっしゃったんですか。」という表現ほど改まりもせず、かといって「どこから来たん(=どこから来たの)。」ほどくだけ過ぎてもいない、適度な親近感を持ちながら、相手を立てる表現と見なされているのである。なお、「~はる」は、尊敬語の性質を持ちつつも、「お父さんはいてはりません。」のように身内に対しても使われることがある。

【解説2】

各地の方言敬語は、語形の上で多様であると同時に、敬語として表現する意味や働きの上で、全国共通語の敬語とは異なる場合があることに留意する必要がある。

【解説1】で「適度な親近感を持ちながら、相手を立てる表現」「尊敬語の性質を持ちつつも、…(略)…身内に対しても使われることがある。」などと解説したのは、この一例である。例えば、自分側の人物に当たる身内の動作を尊敬語で表現することは、全国共通語の敬語では避けるべきこととされるが、各地の方言敬語では「身内敬語」として、改まった場面ばかりでなく、日常的なふだんの場面でも一般的に見聞きされる。そうした方言敬語によって表現される、人間関係や場面への気持ちの在り方が、それぞれの地域社会においては自然でもあり、大切なものとされてもいることに留意したい。

また、現代社会においては、方言を用いた言語表現と全国共通語を用いた言語表現とが、一つの地域社会や実際の言語場面で並存して用いられたり使い分けられたりするのが一般的である。こうした場合、全国共通語による言語表現そのものが、方言を用いた言語表現との対比の上で、相対的に「丁寧な言葉遣い」「改まった言葉遣い」と意識されることがある。例えば、儀式や仕事など公的で改まった場面では全国共通語を用い、私的でくつろいだ場面では方言を用いるという使い分けは、一般的なことである。

留意したいのは、方言敬語が、それぞれの敬語の意味や働きを発揮して、例えば、全国共通語では表現しにくい人間関係や場面への気持ちを表現するような、方言敬語ならではの掛け替えのない働きをしていることである。その働きによって、方言敬語が公的で改まった場面でも用いられることも、また自然なことである。必要なのは、全国共通語の敬語と方言敬語とを的確に使い分ける姿勢である。

各地の方言敬語は、全国共通語の敬語とともに、それぞれの地域社会の多様な言語生活にとって欠くことのできないものである。そのような方言敬語を、上に述べた事柄に留意しながら、将来にわたって大切にしていくことが望まれる。