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補説§5

 補説§5.1 先行研究紹介     佐久間鼎(1941)     三尾砂(1948)  三上章(1953)『現代語法序説』(1963)『日本語の論理』     久野(1973)『日本文法研究』   野田尚史(1996)『「は」と「が」』  菊地康人(1995)「「は」構文の概観」(1997)「「が」構文の概観」     西山佑司(2003)『日本語名詞句の意味論と語用論』    §5.2 「は」と「が」の基本    §5.3 「が」と「は」の話    §5.4 「主語」という用語について
§5.1 先行研究紹介
 「は」についての先行研究を紹介します。 山田孝雄・松下大三郎から始めるべきなのでしょうが、それらはいつかとりあげる ことにして、三上章を中心として、それに大きく影響を与えた佐久間・三尾から始め たいと思います。

◇佐久間鼎(1941)

 「は」が使われるかどうかは、その文が表す内容にも大きく影響されます。そのこと を、おそらく初めてはっきり述べた佐久間鼎による文の分類を紹介します。   佐久間鼎(1941)『日本語の特質』育英書院(復刊1995くろしお出版)   (ただし、私が読んだのは服部他編(1978)所収のものです)   服部四郎他編(1978)『日本の言語学第三巻 文法機拌臀ご杤馘 ◇佐久間鼎(1941)による、述べられる事態の内容による文の分類     物語り文       事件の成り行きを述べる       述語として動詞を要求する        時や所の限定を必要とする     品定め文       物事の性質や状態を述べたり、判断を言い表したりする       述語としてコピュラ(名詞述語)、形容詞を要求する       ふつう有題文となる       ハ・ガ文という構文がある ・物語り文は有題・無題どちらもあり、品定め文は原則有題。  動詞文−名詞・形容詞文という分類にほぼ重なる。  ただし、性質を表す次のような動詞文は品定め文と考える。     この鉛筆はとがっている。     砂漠の土は乾いている。     海水は塩分を含む。     地球は回る。    また、次のような形容詞文は、一時的な状態を表すものとして、物語り文に入れる。     桜がきれいだねえ。     空が真っ赤だ!                          

◇三尾砂(1948)

 次に三尾砂の説を紹介します。「現象文」は現在でもよく使われる概念となっています。    三尾砂(1948)『国語法文章論』三省堂  三尾砂(1948)は言語の「場」という概念を立て、それとの関わりによって文を 分類する。(しかし、この「場」という概念は明確に定義されていない。)     場の文      現象文     場を含む文    判断文     (場を指向する文  未展開文)     (場と相補う文   分節文)   現象文は現象をありのまま、そのままをうつしたものである。判断の加工   をほどこさないで、感官を通じて心にうつったままを、そのまま表現した   文である。     雨が降ってる。     とんぼがとんでる。     電車が来た。     火事だ。   判断文「雨は降ってる」は、雨が降ってるという現象をそのまま表現した   のではなくて、     雨は?   という題目をあたえられて、それについて降ってるか降っていないか止ん   だかを考えた上で「降ってる」という解決をただ一つだけえらんで、題目   に結合したものである。二つの概念を主観の内面的な統一作用によって統   一したものである。  次の「転位文」は判断文の一種である。     木から下りてきたのはおすのくじゃくだ。     おすのくじゃくが木から下りてきたのだ。 (転位文)     社長はどなた?        私が社長です。   (転位文)  課題(社長は?)に対して解決(私だ)を与えれば、     社長は私です。  [課題 は 解決 だ]  となるが、それを     [解決 が 課題 のだ]  の形になおしたものである。                 (以上は服部他編(1978)pp.365-8から抜粋) ▽現象文は無題文に重なるが、おそらくそれより狭い。  判断文は、ここでの引用の限りでは有題文に同じ。        ハ              ガ       有題文            無題文       判断文               現象文      名詞文 形容詞文   動詞文

◇三上章

「は」の問題を生涯かけて考え抜いたのが、三上章です。  三上の『序説』(1953)からと、『論理』(1963)から、ほんの一部分を紹介します。  (『序説』のほうは「2.名詞文」の補説にあるものと同じものです。)

三上章の『序説』から

 名詞文について、基本的な問題を初めて明らかにしたのは、私の知る限りでは 三上章の『現代語法序説』(1953)です。  三上は、名詞文を3つに分類しました。    少なくとも次の三通りの用法を区別しなければならぬ。     措定−無格−第一準詞文      イナゴハ害虫ダ      犬ハ動物ダ      東京ハ日本ノ首都デアル      私ハ幹事デス     指定−有格−第二準詞文      君ノ帽子ハドレデス?      幹事ハ私デス      昨日到着シタノハ扁理ダ      花園ヲ荒ラスノハ誰ダ?     端折リ−第三準詞文      姉サンハドコダ?      姉サンハ台所デス      明日カラ学校ダ      僕ハ紅茶ダ(注文の場合)      私ハ左派社会党ダ(投票の場合)           (『現代語法序説』p43-p.45,例文を一部省略)  取分け重要なのは指定である。指定は措定と違って、語順を変えて指定以前の センテンスに戻すことができる。    どれが君の帽子です?    私が幹事です    皆が血気を忍び押さへていた こういう事実を一点に絞って強調するのが指定である。                           (p.45-46) ▽この第三は、後に奥津敬一郎の『「ボクハウナギダ」の文法』で有名になった 「ウナギ文」です。ウナギ文も、日本語の文の一つの特性を表す重要な文なのか もしれませんが、私は、今一つ関心が薄いままです。  私にとって重要なのは、第一と第二の区別で、「2.名詞文」ではこの二つの 構文の違いを重視し、詳しく説明しました。 次は、その説明の元となった部分です。
『序説』p.132
第二章 主格、主題、主語   七、一致認定  次に掲げる名詞文(準詞文)に英訳を添えるのは、少しでも理解を容易にしよ うがためであって、英文法で日本語を律しようとするのではない。まず甲類とし て三例を掲げ、それらに乙、丙の変換を施してみる。   1.犬は動物だ The dog is an animal. 2.ワシントンは合衆国の首府だ W.is the capital of U.S. 3.私は幹事です I am a director. これらの「ハ」を機械的に「ガ」に変えて乙類を作る。   犬が動物だ(よほど特別な状況に置かないと意味をなさぬ)   ワシントンが合衆国の首府だ 私が幹事です I am the managing director. 2は、たとえばニュウヨオクにはウォオル街あり、主都(メット)歌劇場ありで、万一 勘違いしてるようなものがいたとき、「いやワシントンが」と訂正してやる言方で ある。最後に甲の逆命題として丙類を作ってみる。   動物は犬だ  (論理的に不成立)   合衆国の首府はワシントンだ   幹事は私です 甲と丙との関係はまったく論理的な関係である。乙と丙との関係はその上に文法的 な関係である。一般に「甲は乙だ」という措定のセンテンスとして表現される判断 を論理学上包摂判断という。包摂の文字が表しているように、概念の外延量はA<B であるのが普通である。それに対して同一判断という言葉がある。何を指すのか私に はまだ勉強不足でよくわからないが、ヴント同一判断というのは、甲の2のようなの を指しているのじゃなかったかと思う。それならA=Bであるが、これは解説に使っ た名詞がたまたま唯一物であるためにそういう結果になるので、性質上解説であり包 摂判断であることには変りがあるまい。   等辺三角形は等角三角形である も同様な例であるが、何れも包摂判断のスペシアル・ケイスにすぎない。だからスペ シアル・ケイスも含めると次の公式になる。   包摂判断 A≦B   それに対して、乙の2と3の如く「甲が乙だ」として成立っているセンテンスの意 味は全く性質が違っている。これは解説でもなく、従って包摂判断でもなく、単なる identification にすぎない。概念の内容に立入って何かを教えるのではなく、ただ 違った外形を持っている二つの単語間の一致を認定するだけのものである。   一致認定 A≡B もう一度似た同士を並べて区別すると、   1.私は幹事です (内容に立入る措定、包摂判断)   2.私が幹事です (内容に立入らぬ identification)   3.幹事は私です (指定、述語は有格) 2と3は同じ意味を表しつつ、同時に並び行われている。だからこれに発生上の前後 をつけることは難しいし、或いは無意味だろうとの批判を受けるかも知れないが、動 詞文に由来する第二準詞文   昨夜吠えたのはこの犬だ などと一しょに整理したいから、2を原文と見て、それを翻して3を作るものと考え ておきたい。   この犬です・・・・・・この犬が吠えたのです   私です・・・・そうです、私が幹事です というような呼吸で、ショオト・カットの指定が成立すると見なすのである。                          (p.132-135) ▽三上の説をまとめると、次のようになります。    1「端折り文(ウナギ文)」を別にして、名詞文は大きく二つに分けられる。     措定を表す文  AはBだ     指定を表す文  BはAだ  2 指定を表す文は、語順を変えて「指定以前の文」に戻すことができる。     BはAだ → AがBだ   (措定を表す文は、語順を変えて「BがAだ」の形にはできない。) 2のカッコの中は、はっきりは述べられていませんが、そのつもりだと考えられます。 ▽動詞文で「顕題」「陰題」という用語が使われる部分を引用します。      −−扁理ハドウシタ?       −−扁理ハ到着シマシタ     (顕題)      −−誰ガ到着シタ?      −−扁理ガ到着シタンデス    (陰題)      −−何カにゅうすハナイカ?      −−扁理ガ到着シマシタ     (無題)     問と答に共通な成分が主題である。顕題では「扁理」が主題であり、陰    題では「到着」が主題である。無題の問答には共通成分がない。陰題と    無題との違いは、陰題は語順をひっくり返して      到着シタノハ扁理デス    という顕題のセンテンスに直すことができるが、無題はひっくり返すこ    とができない。これは主題を欠いて、全文が解説なのである。顕題は主    題提示の助詞「ハ」の有無による。                   (三上章『現代語法序説』(1953)p.81)  「陰題は語順をひっくり返して 到着シタノハ扁理デス という顕題のセンテンス に直すことができる」とはっきり述べています。

三上章『日本語の論理 −ハとガ−』1963

「第三章 補遺 一、排他、対比、不問」から(p.194-199) 『言語生活』という雑誌に、読者からの質問があり、松尾拾という国語学者が回答し ているのですが、その回答を引用してから、三上が持論を述べています。   松尾拾『言語生活』(62-11)     ・・・「父は会社にゆきました」と「父が会社にゆきました」とを比べた     場合はどうでしょう。この「が」について、「兄」ではなく、母でなく、    「父が・・・・いった」という気持ちを表すために用いられたのだという解    釈を許すならば、「が」は単に主語を示すだけでなく、なにか強調の用法を    もつようにも思えてきます。そうなると、「は」の主題の提示ときわめて    似かよった用法になり、両者の違いがあいまいになります。  ハとガとの違いがあいまいになるというのは、どういうふうにあいまいなのかを 考えてみたいのである。  山田孝雄が、ハはその意排他的にして事物を判然と指定し他と混乱するのを防ぐのに 使われる、と言って以来、ハの排他性という思想がいくらかひろまったように思われる。   兄は学者だが、弟は政治家だ。 のような用法を頭において、そう言ったのであるが、これはハの代表的用法とは言えな い。それにこのような用法のときでも、その性質を排他的と呼ぶのはまずい。佐久間 『現代日本語法の研究』(52)の修正意見の通りである。   (佐久間の引用は略)  排他的(他を押しのける)なのはガの方である。兄でなく、母でなく「父が・・・・ 行った」というときの「父が」こそ排他的というにふさわしい。   父は会社に行きました(が、母は在宅しております)   父は会社に行きました(し、母も買物に出ておりますし・・・・)  このような「父は」も、排他的とまでは言えない。対比的といったら当たるような用 法である。兄でなく、母でなく「父が・・・・行った」と、兄や母とちがって「父は・・ ・・行った」との違いである。  表示すれば次のようになるだろう。        |弱声的|強声的   −−−−−−−−−−−−    は | 不問 | 対比   −−−−−−−−−−−−    が | 単純 | 排他  あいまいさの問題に戻る。ハにもガにも強調の用法があるということは、あいまいさ とは言えない。強調される性質(方向というべきか)が違うからである。あいまいさはハ の性質にある。その弱声的用法と強声的用法とが連続的であってその間に明リョウな境 界がないこと、あるいは、ハを使って名詞を提示するか否かが気分的な場合があること である。  そのような迷いは多く第二の位置のハに関して起こる。その文では第一の位置でも、 前文からの続き具合では第二と見なされる場合も同様である。   私は、富士山に( )登ったこと(が)ない。   君は、あの映画(を)見たか。  このような括弧の個所をハで提示するか否かは、ちょっとした気分の違いということ にもなる。提示を見合わせれば、そしてそこが主格の位置なら(そういう場合が多い)、 自然にガが残る、ということになる。そのために、問題はハとガの使い分けのあいまい さという体裁になりやすいが、文法的には、ハを使うか使わないかのきめにくさなので ある。この基準で考えなければならない。  一方、ガの排他性(強声的)もガだけの特性ではなく、他の格助詞にもあり、副詞や 動詞にも現れる性質である。   ぜひ私にやらせてください。 [「私に」に傍線]  この傍線にはかなり排他性が感じられるだろう。兄でなく母でなく、どうしても「父 にお会いになりたいんですか」という場合もあるだろう。ハを使わず、そこにストレス を置けば、どんな成分でも排他的になる。ただし、この性質を最もよく発揮するのはガ である。程度の違いではあるが、その程度が飛び抜けているために、排他性をガの特性 のように思っている人があるかも知れない。 ▽後に久野が「は 主題:対照」「が 中立:総記」という、それぞれ  に二つの用法を認めた説を立てることになる、おおもとの考え方がこ  こにあると言えるのかもしれません。  次はその久野の有名な説の紹介です。

◇久野(1973)『日本文法研究』

A.「主題」と「対照」、「総記」と「叙述」   久野は「は」には「主題」と「対照」、「が」には「総記」と「叙述」の  それぞれ(違った)2つの用法があるとした。久野自身のまとめを引用する。   (1)太郎は走っている。     [主題(theme)]:太郎の話をすれば、彼は走っている。     [対照(contrast)]:太郎は走っている(が、花子は走っていない)。   (2)太郎が走っている。     [総記(exhaustive listing)]:(今話題になっている人たちの中で)      走っているのは太郎だけだ。     [叙述(neutral description)]:「ごらん、太郎が走っているよ」   主題となる名詞句は総称(generic)名詞句か、既に話題にのぼっている事  物を指す文脈指示(anaphoric)名詞句でなければならない。だから、 (3)a.人間は考える葦である。(総称)     b.太郎は私の友達です。(文脈指示)  は文法的であるが、   (4)a.*大勢の人はパーティーに来ました。     b.*雨は降っています。  は独立文としては非文法的である。他方[対照]となる名詞句にはこのよう  な制約がない。従って(4)も、「大勢の人」、「雨」が何か他の名詞句と比  較対照されるような文脈に現れれば、文法的となる。   (5)a.大勢の人はパーティーに来ましたが、面白い人は一人も来ませんで      した。 b.雨は降っていますが、雪は降っていません。  [叙述]を表す「が」は、その述部が非習慣的動作か存在を表すことを要求  する。述部が状態を表すか、習慣的な動作を表す場合には、その主語として  の「名詞句+が」は[総記]の解釈しか受け得ない。   (6)a.手紙が来ました。 b.雨が降っています。 (7)a.太郎が学生です。 b.犬が動物です。 c.太郎が毎日学校に行きます。                       (久野(1973)pp.207-8)
B.「旧情報」と「新情報」(「既知」と「未知」)
 また、久野は「は」と「が」について、情報の新旧ということが重要な概念 であるとして、詳しく述べている。   (10)a.兄弟の中で誰が独身ですか。     b.太郎が独身です。   (10)aは、聞き手の兄弟の中で誰かが独身であることを話し手が前提とし  ている質問である。この質問に対する返事(10)bの主語「太郎」は、質問中  の未知数X(すなわち「誰」)の解であるから、新しい(或いは、予測出来  ない)インフォーメイションを表していると言える。他方、同文中の「独身  です」は、Xを提出するためのフレイムを与えているに過ぎない。その証拠  に、(10)aに対して、ただ、   (11) 太郎です。  と答えることができる。同様、   (12)a.太郎と花子と夏子のうちで、誰が一番背が高いか。     b.太郎が一番背が高い。  においても、(12)bの主語「太郎(ガ)」は新しい、予測できないインフォー  メイションを、述部「一番背が高い」は古い予測出来るインフォーメイショ  ンを表している。   与えられた構成要素が、その文の中で新しいインフォーメイションを表す か古いインフォーメイションを表すかという概念は、その構成要素が指す事物 が既に話題にのぼったことがあるか否かという概念(anaphoricity)とは別のも のであることに注意されたい。(12)bの「太郎」は、既に質問の中に登場した人 物であるから anaphoric である。しかし(12)bの文の中で「太郎」が占めてい る意味的機能という見地からすれば、それは新しいインフォーメイション、す なわち、文脈から予測することのできないインフォーメイションを表している のである。            (久野(1973)pp.209)
C.久野の問題点(1):「主題」と「対照」
 a.「主題」とは何か。  b.「主題」と「対照」は別々の機能か?  ◇「主題」あるいは「〜は」の定義のしかた ・「主題(題目)」の定義は難しい。  尾上は次のように述べている。   「題目語という概念をどう規定するかに付いては定説はなく(ありえず)、    どう規定しても誤りということはない。結局は、なにを目指してどう定    義することが文法論の全体にとって有効かという観点から議論するしか    ない。」(p.22)              尾上圭介(2004)「主語と述語をめぐる文法」 ・確かに尾上の言う通りかもしれないが、「主題」の場合には、それが構文の中 でどういう機能を果たすものなのか、他の概念(例えば「対比/対照」)とどの ような対立関係にあるのかを明確に示すことが必要だろう。 ・菊地康人(1995)の「「は」構文」の定義  菊地は、「〜は」が「主題」か「対照」かという議論は別にして、「〜は」が 使われている構文を「「は」構文」とし、次のように述べている。 (下のほうに菊地論文の紹介をしました)     「は」構文すなわち「Xは<述部>」という文は、「Xについての     情報を述べると〔=Xはどうしたか/どうであるか(等)というと〕,     <述部>」という述べ方をする'情報構造'の文である。(p.37) ▽「対照」という用法をたてることについて  主題は、ある名詞に対して「主題−解説」の構造を使うことによって解説 (情報)を与えようとするためのものである。すなわち、基本的には一文の 中での情報構造を形作るものである。それが、談話文法に活かされていく。  それに対して、「対照」はさまざまな範囲の構造で起こりうる。節と節の間 で起こり、文と文の間でも、連文(文の連続)と連文の間でも起こりうるし、 段落の間でも起こる。     (太郎と二郎はどうしたか。)     太郎は学校へ行き、二郎は病院へ行った。     太郎は学校へ行った。そして、二郎は病院へ行った。     太郎は学校へ行った。そして授業をした。しかし、二郎は病院へ行っ         た。そして、診察を受けた。     東京は東日本の中心都市である。〜。〜。〜。一方、大阪は〜。〜  「対照」は述べようとする内容の対比によって引き起こされる意味上の対立  を「は」が請け負わされているに過ぎない。一文の「構文」の問題ではない。 ・柴谷(1990)から。   以上のことから、久野のいう「対照を表す『は』」なるものは、独立のも  のではなく、主題の「は」が内在的に持つ対比の特性の顕在化に外ならない、  ということが分かる。つまり、対比を強調する文脈(例えば、主題文が二つ  対比させられているとき)があれば、対照の意味合いが強く感じられるとい  うことであって、主題の「は」と別のものとして対照の「は」があるという  ことではない。               (p.291)
D.久野説の問題点(2):「新情報」「旧情報」
   基本となる概念、「新しい、予測できないインフォーメイション」(新情報) とはどういうものか、「古い、予測できるインフォーメイション」(旧情報)とは どういうものかがはっきりしない。「予測できる」とは何を意味するのか。    太郎と花子と二郎があそこにいる。     a 太郎はイスに腰掛けている。     b 太郎が花子を呼んだ。     c 花子はいちばん背が低い。     d 太郎と二郎は兄弟だ。  この例で、「太郎が」は「新情報」で、他の「太郎は」「花子は」「太郎と 二郎は」が「旧情報」であるということを、どう説明するか。    タクシーが止まっている。     a 運転手は若い男だ。 b 運転手がタバコをすっている。  「運転手」は「予測」できる情報か、できない情報か。 ・上林洋二(1987)の批判    このような混乱が生ずるのは、「既知」になったり、「未知」になった   りするものを、要素であると考えるからに他ならない。「既知」になった   り、「未知」になったりするものは、あくまでも命題であって、要素であ   ってはならない。たとえば、(16)(「君が責任者だ」)においては、    (18) Xが責任者だ   という命題が既知、    (19) X=きみ   という命題が未知、であるということである。    一般に、文の焦点に対する前提を表す命題こそ「既知」であり、その焦   点と他の項目を等号で結んでできた命題が「未知」であると考えるべきで   ある。「既知」「未知」をこのように定義するしかないのなら、「前提」   「焦点」といった述語と別に、このようなミスリーディングな述語をたて   る必要はまったくないだろう。           (p.137) 参考文献  佐久間鼎(1941)『日本語の特質』育英書院(復刊1995くろしお出版)  三尾砂(1948)『国語法文章論』三省堂  三上章(1953)『現代語法序説』(復刊1972くろしお出版)  三上章(1955)『現代語法新説』(復刊1972くろしお出版)  三上章(1963)『日本語の論理』くろしお出版 久野(1973)『日本文法研究』大修館  服部四郎他編(1978)『日本の言語学第三巻 文法機拌臀ご杤馘  尾上圭介(2004)「主語と述語をめぐる文法」『朝倉日本語講座6 文法供  菊地康人(1995)「「は」構文の概観」『日本語の主題と取り立て』くろしお   出版  上林洋二(1987)「措定文と指定文−ハとガの一面−」『文藝言語研究 言語篇』14 筑波大学

◇野田尚史(1996)『「は」と「が」』

野田尚史(1996)『「は」と「が」』くろしお出版(新日本文法選書1)  この本は、「は」の問題を考えようとする場合、必ず読んでみなければならない本 だと思います。  ただ、専門書として研究者相手に書かれたものではなく、かなり広い読者を想定し て書かれているので、議論が今ひとつ徹底していないところがあり、物足りなさを感 じることがあります。 まず最初にこの本の目次を下に紹介します。  「は」と「が」について一つ一つの構文をとりあげ、丁寧に説明しています。それ から、「ハとガの使いわけ」に多くのページを費やしています。従属節の中での「は」 と「が」の問題の後、「対比のハ」と「排他のガ」について、章を立てて解説してい ます。そして「〜は〜が」文の問題が続きます。 野田尚史(1996)『「は」と「が」』くろしお出版(新日本文法選書1) 第1部 「は」と「が」の基本的な性質      p.1  第1章 「は」の基本的な性質  第2章 「が」の基本的な性質 第2部 「は」が使われる文           p.37   第3章 「父は子の本を買ってくれた」構文       格成分が主題になっている文  第4章 「象は鼻が長い」構文       格成分の連体修飾部が主題になっている文  第5章 「かき料理は広島が本場だ」構文       述語名詞の連体修飾部が主題になっている文  第6章 「辞書は新しいのがいい」構文       被修飾名詞が主題になっている文  第7章 「花が咲くのは7月ごろだ」構文       節が主題になっている文  第8章 「このにおいはガスが漏れてるよ」構文       破格の主題をもつ文主題になっている文 第3部 「が」が使われる文              p.83  第9章 「富士山が見えるよ」構文       主題をもたない文  第10章 「君が主役だ」構文       述語が主題になっている文 第4部 「は」と「が」の使いわけ           p.107   第11章 「は」と「が」の使いわけの原理  第12章 主題をもつ文ともたない文の使いわけ  第13章 文の主題の選び方  第14章 明示的な主題と暗示的な主題の使いわけ   第5部 文章・談話の中の「は」と「が」       p.153  第15章 文章・談話の最初の文の「は」と「が」  第16章 文章・談話の途中の文の「は」と「が」 第6部 従属節の「は」と「が」           p.169  第17章 従属節をもつ文の「は」と「が」  第18章 従属的な文の「は」と「が」  第19章 「この問題はとくのがむずかしい」構文 第7部 対比を表す「は」              p.199  第20章 明示的な対比を表す「は」  第21章 暗示的な対比を表す「は」  第22章 「は」で対比を表せる成分 第8部 排他を表す「が」              p.229  第23章 排他を表す「が」  第24章 「が」で排他を表せる成分  第9部 「は」と「が」の周辺             p.245  第25章 「〜は〜が・・・・」構文    第26章 「〜が〜が・・・・」構文  第27章 話しことばの無助詞 第10部 「は」と「が」の理論             p.273  第28章 機能からみた「は」と「が」   第29章 構造からみた「は」と「が」  第30章 いろいろな言語の「は」と「が」 おわりに                      p.301   ◇では、内容を少しずつ見ていきましょう。  まず、「主題」という基本的な用語の定義について。この本の初めは、    第1章 「は」の基本的性質      1.「は」は格を表さない      2.「は」は主題を表す という始まり方をしていて、巻頭2ページ目で「主題」の定義が出てきます。  主題という用語は、「はじめに」を除けば、  「第1章 「は」の基本的性質」の「2...「は」は主題を表す」で、     これをまとめると、「は」は、聞き手にとって関心がありそうな名詞    の後について、その名詞がその文の「主題」であることを示す働きをす    るのだと、とりあえず、いうことができる。                     (『「は」と「が」』p.3) という使われ方が初出です。この引用部分の前に、具体的な例があります。       (5) 子供たちはカレーを作っています。       (6) カレーは子供たちが作っています。     (5)が使われるのは、聞き手が子供たちについて知りたがっているよ    うな状況で、話し手が「子供たちは何をしているのか」あるいは「子供    たちは何を作っているのか」ということを知らせようとするときである。    一方、(6)が使われるのは、聞き手がカレーについて知りたがっている    ような状況で、話し手が「カレーはどうしたのか」あるいは「カレーは    だれが作っているのか」ということを知らせようとするときである。                            (同書p.3)    この例と上の説明を見れば、とりあえず著者が主題をどのようなものと考えている のか、基本的なことがわかります。つまり、     ー臑蠅(ふつう)文頭におかれる「名詞(+は)」である。    ◆ー臑蠅蓮嵎垢手にとって関心がありそうな名詞」である。         文の、主題以外の部分は、その主題について「何をしているのか」     「どうしたのか」などを知らせようとするものである。    ぁー臑蠅箸覆詭昌譴蓮崋膤福廖崑仂欒福廚覆匹任△襦  ここまでは、主題の定義として多くの研究者が認めるところでしょう。細かな、表 現のしかたなどを除いて。△亙垢手の視点からの説明で、ここは少し特徴的なとこ ろですが、そのことは今は問題としません。  しかし、この本の主題の定義はもっと広いのです。まず、名詞文の述語。     「が」が使われる文には、主題を持たない文と、述語が主題になって    いる文の2種類がある。(中略)     第2の、述語が主題になっている文というのは、次の(12)のような文    である。       (12) 八木がキャプテンだ。     この文は、聞き手がキャプテンに関心があり、聞き手にキャプテンが    だれであるかを知らせるときに使われる文であり、「キャプテン」がこ    の文の主題になっていると考えられる。それは、この文が次の(13)とだ    いたい同じ意味を持ち、同じような働きをすることからもわかる。       (13) キャプテンは八木だ。     この種の文の述語は、典型的には「キャプテンだ」のような名詞述語    である。そして、「〜が」には排他的な意味が感じられるのがふつうで    ある。                    (同書p.12)  ここも比較的問題の少ないところでしょう。「NがNだ」という形の名詞文の述語 が「主題相当」であることはよく言われることです。ただ、それをはっきり「述語が 主題になっている文」と言い切るかどうかで違いがあります。  そして、次に引用する部分では、名詞文以外にも拡張します。     たとえば、次の(17)では、はじめの人の発話にでてくる「ホームラン    を打つ」をうけて、次の人が「(ホームランを)打ってくれる」を主題    にした「〜が」の文を使っている。       (17) 「このへんで、だれかホームランを打たないかなあ。」          「八木が打ってくれるよ。このところ調子いいから。」     このように前の文にでてきたものがそのまま次の文の主題になること    もあるが、前の文にでてきたものに関係のあるものが次の文の主題にま    ることも多い。次の(18)では、はじめの文に「ウエートトレーニングに    取り組んでいる」ことがでてきたので、次の文ではそれに関係のある    「目的」が主題になっている。       (18) 八木はこのところウエートトレーニングに取り組んでいる。         上半身の筋力アップが目的だそうだ。                            (同書p.13)  以上がこの本の「第1部 「は」と「が」の基本的性質」の中で、主題の定義(範 囲)に関する部分です。  ここで問題になるのは、上の(17)の動詞文の「打ってくれる」を主題としているこ との妥当性です。  例えば(18)の名詞文の場合は、主題とされる「目的」を「〜は」の形で明示的に主 題とした次の文も成り立ちます。     (ウエートトレーニングの)目的は上半身の筋力アップだそうだ。  しかし、「八木が打ってくれるよ。」という文の「打ってくれる」を主題とした次 の文は、(17)の文とは違ったものになってしまいます。     「このへんで、だれかホームランを打たないかなあ。」     「打ってくれるのは八木だよ。このところ調子いいから。」      これは、その発話の前の発話が、「だれか打たないかなあ」という単なる願望の表 現に過ぎないので、それだけでは「(誰かが)打つ」ことが十分な前提として成り立っ ていないからでしょう。「述語が主題になる」ということを述べるなら、もっとはっ きりと「主題らしい」例を出すべきです。  三上章は、「陰題」ということを次の例文で説明します。      −−扁理ハドウシタ?       −−扁理ハ到着シマシタ     (顕題)      −−誰ガ到着シタ?      −−扁理ガ到着シタンデス    (陰題)      −−何カにゅうすハナイカ?      −−扁理ガ到着シマシタ     (無題)     問と答に共通な成分が主題である。顕題では「扁理」が主題であり、陰    題では「到着」が主題である。無題の問答には共通成分がない。陰題と    無題との違いは、陰題は語順をひっくり返して      到着シタノハ扁理デス    という顕題のセンテンスに直すことができるが、無題はひっくり返すこ    とができない。これは主題を欠いて、全文が解説なのである。顕題は主    題提示の助詞「ハ」の有無による。                   (三上章『現代語法序説』(1953)p.81)  野田尚史の論は、もちろんこの三上の論を頭においているのでしょうが、例文の出 し方が不適切なものになっていると私は思います。三上の例のような人工的でないも のにしたかったのでしょうが、残念ながらうまくいっていないと思います。 ◇第1章のまとめ
第1章7.「は」の基本的な性質のまとめ
 「は」の基本的な性質について、この章でみてきたことをかんたんにまとめると、 次のようになる。  1)「は」の文法的な性質──格を表す「が」や「を」などとは違い、文の主題を    表す助詞である。  2)「は」が使われる文──「〜が」や「〜を」のような格成文の名詞が主題になっ    た文のほか、連体修飾の「〜の」の中の名詞が主題になった文、被修飾名詞が    主題になった文など、いろいろなものがある。  3)文章・談話の中の「は」──「は」が使われる文は、前の文章にでてきたもの    や、それに関係のあるものを主題にする。そして、文章・談話の中では、話題    を継続するのに使われる。  4)従属節の中の「は」──主題の「〜は」は、「〜たら」、「〜とき」、「〜た    め」のような従属節の中にはでてこない。  5)「は」の対比的な意味──主題を表す働きが弱く、対比的な意味を表す働きが    強いものがある。                                  (p.8) ▽基本的なことのまとめです。このそれぞれについて、後の章で詳しく述べています。  興味深いのは5)で、「主題を表す働きが弱く」ということは、弱いにせよ、「主  題」である、ということです。久野のような、「主題でなく、対照をあらわす」と  いう言い方、つまり二つの別の用法とみることはしていません。
第2章「が」の基本的な性質
1.「が」は格を表す  「は」は特定の格を表す助詞ではなく、文の主題を表す助詞であった。それ にたいして、「が」は、「を」や「に」や「で」と同じく、格を表す助詞であ る。                         (p.9) 2.「が」は主題でないことを表す  「は」が文の主題を表す助詞であり、「が」が述語の主格を表す助詞だとす ると、「は」と「が」はまったく違うレベルのものであり、たがいに対立関係 にないものだと思われるかもしれない。しかし、実際には、次のような対立関 係がある。 たとえば、次の(4)の「八木は」は、この文の主題を表している。だが、同時 に、この「八木は」は格としては動作の主体を表す格になっている。「は」は 積極的に主格を表す助詞ではないが、この文の中では「八木は」は「打つ」に たいして主格になっているのである。   (4) 八木はホームランを打った。  そのように考えると、次の(5)の「八木が」はどうだろう。   (5) 八木がホームランを打った。  この「八木が」は、「打つ」の主格を表している。だが、同時にこの「八木 が」は、「八木」が文の主題ではないことを表していると考えられる。つまり、 「八木が」という形を使うということは、「八木は」という主題を表す形をあ えて使わないということであり、その意味で、「八木が」の「が」は「八木」 が文の主題でないことを表しているといえる。  ここまでをまとめると、次のようになる。(4)の「八木は」も(5)の「八木が」 も、「打つ」にたいして主格になっている点では、共通している。だが、(4)の 「八木は」はこの文の主題になっているのにたいして、(5)の「八木が」はこの 文の主題になっていない点では、対立している。                             (p.10)  このような意味で、「が」という助詞は、その前の名詞がその文の主題でな いことを表す働きをするということができる。                             (p.11) ▽「は」と「が」の対立、なのか、「は」を使った文と「が」を使った文の対 立、なのかを分けて考えたほうがいいのではないでしょうか。  「は」と「が」は、主題助詞(副助詞・係り助詞)と格助詞の対立でしょう。 「が」は格を表し、「は」は文の主題を表す。基本的に「違うレベルのもの」 です。  文の対立のほうを考えると、「は」を使った文は主題文であり、「が」を使 った文(「は」を使わなかった文)は非主題文・無題文です。この2つの文の 使いわけは、連文のレベルで大いに問題になることです。  無題文は、表すべき事象を、述語と格の枠組みによってそのまま表現した文 です。「主題文でない」ことを積極的に表しているわけではありません。  主題文は、ある名詞を主題としてとりあげ、それにたいする解説としてある ことを述べ、全体である事象を表そうとするものです。話し手の、それを主題 文で表そうという選択の結果、作り出される文です。  この2種類の文、主題文と無題文を使って、私たちは事象を文のつながりで 表していくわけです。  このことは、「61.1 主題のつながり」で述べました。  さて、以上のように考えると、上の、    「が」という助詞は、その前の名詞がその文の主題でないことを表す    働きをする というのは、ちょっと言い過ぎでないのか、と思います。 ここは、助詞の働きの違いというより、そういう助詞を使った文が何を表す かの違いとしてとらえたほうがいいように思います。
第2章7.「が」の基本的な性質のまとめ
 「が」の基本的な性質について、この章でみてきたことを簡単にまとめると、次の ようになる。  1)「が」の文法的な性質──「を」や「に」などと同じく、述語と名詞との格関    係を表す助詞である。  2)「が」が使われる文──ア)とイ)の2種類がある。   ア)主題をもたない文       八木がホームランを打った。   イ)述語が主題になっている文       八木がキャプテンだ。  3)文章・談話の中の「が」   ア)主題をもたない文──前の文脈とつながりをもたず、話題を導入したり、転     換したりするのに使われる。   イ)述語が主題になっている文──前の文脈にでてきたものや、それに関係のあ     るものを主題にして、話題を継続するのに使われる。  4)従属節の中の「が」──「〜たら」、「〜とき」、「〜ため」のような従属節    の中では、文の主題は問題にされないので、主題を表す「〜は」は使われず、    格を表すだけの「〜が」が使われる。  5)「が」の排他的な意味──主格を表す働きが弱く、排他的な意味を表す働きが    強いものがある。                                  (p.16) ▽第1章の「は」に対応した、「が」のまとめです。  ここでも興味深いのは5)です。「主格を表す働きが弱い」場合の典型的な例とさ れるのは、次の「〜ほうが」の「が」です。   (略)次の(30)になると、「が」格を表す働きは消えて、単に排他的な意味を表す   だけになる。     (30) このバットのほうがホームランが打てる。   (30)のもともとの格関係は、「このバットでホームランを打てる」だろう。そう   すると、「このバットのほうが」は「が」格ではなく「で」格だと考えられる。                                  (p.15-16)  さてさて、どうでしょうか。そう言っていいものかどうか。  「「が」格を表す働きは消えて」しまうということは、格助詞ではなくなるという ことでしょうか。  「単に排他的な意味を表すだけ」という用法の助詞とは何か。  「もともとの格関係」は「バットで」で、それが「バットのほうが」に変えられ、     「このバットのほうが」は「が」格ではなく「で」格だと考えられる。 というのですから、これは「は」や「も」が格助詞と共に使われるのと同じような用 法と見なしていることになります。つまり、副助詞のような用法と考えているのでし ょう。  ただし、「は」「も」の場合は、「で」は省略されず、「では」「でも」となりま す。「が」では、「でが」とならず、「(のほう)が」となる、と言うのでしょうか。  この考え方は無理だと思います。(30)の「〜のほうが」は単なる格助詞「が」だと 考えたほうがいいでしょう。「〜が〜が」と繰り返すことになるのがいやなのでしょ うか。 しかし、それは、    (どの動物が「鼻が長い」かと言えば)象が鼻が長い。 など、「〜ほうが」でなくともみられる形です。この「象が」の「が」も「が」格で はないとするのでしょうか。  「打てる」のような可能動詞は、対象を「を」で示すこともできます。      このバットのほうがホームランを打てる。 これなら、「が」は主格で問題ないでしょう。  「もともとの格関係」などというものを持ち出すのはよくありません。それを言うと、     この件は、あなたのほうで考えておいてください。 の「〜のほうで」は、「もともとの格関係」は「あなたがこの件を考える」だから、 「で」格ではなく「が」格だ、というような無理な話になってしまいます。  どちらも、そのような意味関係を持っている、というだけにしておいたほうがいい でしょう。
第5章 「かき料理は広島が本場だ」構文
 −述語名詞の連体修飾部が主題になっている文−  「かき料理は広島が本場だ。」のような文は、表面的には、前の第4章でみた「象は 鼻が長い」構文と同じく、「〜は〜が・・・・・・。」という形をしている。  しかし、その構造は「象は鼻が長い」構文とは違う。「象は鼻が長い」構文は、「象 の鼻が長い(こと)」という格関係をもっていたのにたいして、「かき料理は広島が本 場だ。」のような文は、「広島がかき料理の本場だ」のような格関係をもっている。 つまり「象」は、主格名詞の「鼻」と「の」で結びつく関係にあったのにたいして、 「かき料理」は、述語名詞の「本場」と「の」で結びつく関係にあるのである。                                   (p.42) 第5章4.「本場」の部分の種類  「かき料理は広島が本場だ」構文では、「象は鼻が長い」構文とは違って、述語はか ならず「本場だ」のような名詞述語になる。  しかし、どんな名詞でもこの構文の述語になれるわけではない。そこでこの構文の述 語に使われる代表的・典型的な名詞をあげていくことにする。                                   (p.46) (▽以下、例文など省略、記述を整理して名詞を引用します)  1)「特徴」類    特徴 特色 とりえ 欠点 特技 自慢   人やものの特徴を表す名詞の類  2)「中心」類    中心 主流 代表 主役 本場 主産地 標準 定説    ほとんど 大半(数量) 最盛期 旬(時期)   なんらかの意味で、ものごとの中心や代表を表す名詞  3)「原因」類    原因 きっかけ 発端 動機   広い意味で原因を表す名詞の類  4)「目的」類    目的 ねらい 目標   広い意味で目的を表す名詞の類  5)「基盤」類    基盤 前提 条件 根拠 決めて   ものごとの成立にとって重要な側面を表す名詞の類  6)「限度」類    限度 上限 最初 最後 初日 潮どき   ものごとのおよぶ範囲の限界を表す名詞の類    こうした名詞の特徴をひとことでいえば、主題になっている名詞(つまり「かき料 理」の部分)にとって重要な側面を表すものということになる。                                    (p.48) ▽「重要な側面」という規定が、今ひとつ「必要十分」ではないようにも思うのです が、重要な構文をとりあげ、その特徴を説明した論として、非常に興味深いものです。 (上の引用は、もちろんほんの一部分で、もっといろいろな議論があり、関連した構文 などもとりあげられています。興味のある方は、この本か、もとになった論文、  「「カキ料理は広島が本場だ」構文について」『待兼山論叢 日本学篇』15 p.45- p.66 大阪大学文学部 をご覧ください。) (TUDUKU) ◇各章を順に紹介していくのがいいのでしょうが、そうするとあまりにも長くなってし まいます。  あいだを飛ばして、いちばん関心の高そうな問題、「使いわけ」のまとめを引用します。
11章14.「は」と「が」の使いわけの原理のまとめ
 「は」と「が」の使いわけの原理について、この章でみたことを簡単にまとめると、 次のようになる。 1)「は」と「が」の使いわけの5つの原理   A)主題をもてるかどうかの原理  ←3)文と節の原理   B)主題をもつかどうかの原理   ←2)現象文と判断文の原理   C)何を主題にするかの原理    ←1)新情報と旧情報の原理   D)主題を明示するかどうかの原理 ←5)措定と指定の原理   E)どうとりたてるかの原理    ←4)対比と排他の原理 2)「は」と「が」の使いわけの原理の体系  A)からE)の5つの原理は、それぞれ、次のAからEの分岐点で働く。                       ┌−格成分が主題−−−−−−−→「は」                       |               ┌−主題をもつ−C−述語が主題−D−主題を明示→「は」               |               |      ┌−主題を持てる−B               └−主題を暗示→「が」      |        | ┌−主題−A        └−主題をもたない−−−−−−−−−−−−−−→「が」 |    | |    └−主題をもてない−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→「が」 | └−とりたて−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−E−対比→「は」                                  |                                  └−排他→「が」                             (p.117)  ▽上の「5つの原理」についてかんたんに説明を加えておきます。  右側の「←」がついたほうは、「第11章1.これまでに提案された5つの原理」に あげられたものです。下にその部分を引用します。 第11章1.これまでに提案された5つの原理  「は」と「が」の使いわけについては、これまでにさまざまな研究がおこなわれて きた。そうした研究で提案された「は」と「が」の使いわけの原理のうち重要と思わ れるものを整理すると、大きく、次の1)から5)の5つにまとめることができる。   1)新情報と旧情報の原理──新情報には「が」、旧情報には「は」   2)現象文と判断文の原理──現象文には「が」、判断文には「は」   3)文と節の原理──文末までかかるときは「は」、節の中は「が」   4)対比と排他の原理──対比のときは「は」、排他のときは「が」   5)措定と指定の原理──措定には「は」、指定には「は」か「が」                                  (p.108-9) 野田尚史によれば、  1)は、松下大三郎(1930)に始まり、久野(1973)などに受け継がれているものです。  2)は、三尾砂(1948)のものです。  3)は、山田孝雄(1936)が最初で、三上章、野田尚史などが詳しく研究しています。  4)は、三上章(1963)に始まり、久野(1973)が「対照」と「総記」という用語で知 られる区別をしました。  5)は、三上章(1953)で指摘されたものです。  上の「11章14」では、「これまでの研究では、これら5つの原理は、それぞれ別々 の例文を説明するために、別々の視点から、ばらばらに述べられていた」(p.112)もの を「「主題」という統一的な視点からとらえなおすことにする」(p.112)として、左側 に書かれているようなA)からE)の「原理」にまとめ直しています。 ▽次は、「対比」を扱った章から。
第20章 明示的な対比を表す「は」
 「は」には、対比的な意味が感じられるものがある。たとえば、「子供たちはカレー は作っているが、ごはんは炊いていない。」の「カレーは」と「ごはんは」や、「子供 たちは食器は持ってきた。」の「食器は」である。  この第20章でとりあげるのは、このうち、「子供たちはカレーは作っているが、ごは んは炊いていない。」のように、対比の相手が明示されているものである。「子供たち は食器は持ってきた。」のように、対比の相手が明示されていないものは、次の第21章 でとりあげる。  (中略) 1.対比専用の「は」と対比兼用の「は」  一般に「対比の「は」」といわれるのは、次の(1)の「肉は」の「は」、「魚は」の 「は」や、その次の(2)の「兄は」の「は」、「弟は」の「は」である。   (1) 私は肉は好きだが、魚は好きではない。   (2) 兄は肉が好きだが、弟は魚が好きだ。  ただし、同じように対比を表すといっても、(1)の「は」と(2)の「は」には違いがある。 (1)の「肉は」、「魚は」は、対比の意味がなければ、次の(3)のように、「肉が」、「魚 が」になる。それにたいして、(2)の「兄は」、「弟は」は、対比の意味がなくても、そ の次の(4)のように、「兄は」、「弟は」だからである。   (3) 私は肉が好きだ。/ 私は魚が好きではない。   (4) 兄は肉が好きだ。/ 弟は魚が好きだ。  いいかえると、(1)の「肉は」と「魚は」の「は」は、対比を表すだけで、主題を表す 働きはしていない。この文で主題を表しているのは、「私は」の「は」である。それに たいして、(2)の「兄は」と「弟は」の「は」は、まず第一に、主題を表している。そし て、それが、逆接の接続助詞の「が」を使った対比の構文の中にあるために、結果的に、 対比の意味を感じさせるのである。  これは、対比を表すといわれる「は」にも、対比専用の場合と、対比兼用の場合があ るということである。対比専用というのは、(1)の「肉は」と「魚は」の「は」のように、 主題を表さず、対比だけを表すものである。対比兼用というのは、(2)の「兄は」と「弟 は」の「は」のように、主題を表すと同時に、対比の意味ももっているものである。 (p.200-201) ▽私は「対比/対照」という考え方にこだわっています。「主題」という用法と別の用 法と考えることに賛成できないからです。私の考えでは、(1)の「肉は」も「主題」の 一種、「副題」ということになります。  けっきょく、「主題」の定義をどう考えるか、という問題になります。  上の(3)(4)の例を使った議論は、複雑な問題を省略してかんたんなところだけを述べ ているように感じます。   ▽ずっと後のほうのページですが、「対比」に関連したところを。 ◇主題の「階層」と談話の主題    (主題の「〜は」の)特殊な制限というのは、事実を表すムードなど    真偽が判断できる確定のムードとは呼応するが、意志を表すムードな    ど真偽が判断できない未確定のムードとは呼応しないという制限であ    る。たとえば、意志のムードと呼応する次の(3)のような「は」は対    比を表すだけで、主題は表さない。(中略)      (3) 私はケーキセットにしよっと。                          (同書p.284)  主題は意志のムードと呼応しないと言うのですが、次のような文脈においた 場合はどう考えたらよいのでしょうか。      「あなたはどうしますか」      「私はここに残りましょう」  「あなたは」は当然主題です。その答えの「私は」が主題でなく、対比に過 ぎないとしたら、主題による談話の流れは断ち切られてしまいます。主題がな いということは無題文?       「お二人はどうしますか」      「彼は多分帰るでしょうが、私はここに残りましょう」  なぜ(3)の「私は」は主題でないと言えるのでしょうか。また、「彼は」は どうなるのでしょうか。「彼は」は主題で、それと対比される「私は」が主題 でないというのも変でしょう。そうすると、ことの二つの文、二人の話し手の やりとりは「主題なし」なのでしょうか。  あらためて、上の引用の「真偽が判断できる」ということの必要性は何によ って保証されるのかを考える必要があるでしょう。  第1部で「主題」とはどのようなものかを見ました。それを再びあげると、     ー臑蠅(ふつう)文頭におかれる「名詞(+は)」である。    ◆ー臑蠅蓮嵎垢手にとって関心がありそうな名詞」である。         文の、主題以外の部分は、その主題について「何をしているのか」     「どうしたのか」などを知らせようとするものである。    ぁー臑蠅箸覆詭昌譴蓮崋膤福廖崑仂欒福廚覆匹任△襦 ですが、この中で(3)に当てはまらないのは、何なのでしょう。のところでし ょうか。「何をしているのか」「どうしたのか」ではなく、「どうするのか」 になっている点が、唯一の違いです。しかし、その違いによって、談話の中で 主題のつながりを保持していくこと、主題について尋ね、主題について答える という流れにどういう違いが起きるというのでしょうか。  主題の定義に、意志のムードと呼応しない、ということを本当に入れるべき なのでしょうか。 (TUDUKU)

◇菊地康人(1995)「「は」構文の概観」

菊地康人の論文を紹介します。これも重要な論文だと思います。 菊地康人 1995「「は」構文の概観」『日本語の主題と取り立て』くろしお出版       (p.37-69)  「名詞句+は」で始まる文を'「は」構文 ’と呼ぼう。「は」構文にも、いろ いろなタイプのものがある。本稿はそれらを概観・整理しようとするものである 。ただし、<「は」の用法>がいわゆる'主題'か'対比'かといった観点からの関 心ではなく、<構文としてのタイプ>という観点からの整理である。「は」構文 のうち「XはYだ」型のものは兇琶粍靴い垢襪海箸箸掘△泙梱気任蓮△海谿奮 の一般の「は」構文を概観する。  なお、「名詞句+格助詞+は」の構文は、本稿ではとりあえず除外する。 機グ貳未痢福瓠孱悗錬戮澄彿犬鮟く)「は」構文の概観  始めに、各種の「は」構文を通じて認められる特徴−−「は」の働き−−を、 概略次のようにおさえておこう。   (★)「は」構文すなわち「Xは<述部>」という文は、「Xについての     情報を述べると〔=Xはどうしたか/どうであるか(等)というと〕,     <述部>」という述べ方をする'情報構造'の文である。  これは、いわゆる'主題'の用法を念頭に置いた述べ方ではあるが、'対比'の場 合も基本的には同様である−−つまり、二つ以上のXについてこれを行い、その 情報内容も対照的な場合がいわゆる'対比'の用法である−−といえよう。(★) に伴って、   (★')「は」構文は、述部が何らかの意味でXについての情報として機能     する、という条件を満たしてこそ成り立つ。 ということになる。そこで、   A.「は」構文の成立条件は何か。 ということは、   B.<述部がXについての情報として成り立つ>とはどういうことか(どの ような場合に、述部はXについての情報として成り立つのか)。 と言い換えうることになる。  このような問の立て方は、これまであまり行われてこなかったかと思うが、立 ててよい問であることは、本稿を通じて次第に明らかになっていくであろう。  さて、本稿は、   C.「は」構文にはどのようなタイプがあるか。 についての概観であるが、その分類にあたっては、   D.Xが述部に対してどういう関係をもつか。 が主要な観点となる。以下、次第に詳しくみていくように、たとえば、   <述語に対して格関係をもつ>   <述語に対して格関係はもたないが、述語に対する格成分に「Xの」で係る    関係をもつ>   <格関係も、「の」で係る関係ももたないが、'包含関係'をもつ>   <格関係も、「の」で係る関係も、'包含関係'ももたない> など、いろいろな関係があるのだが、先程のAあるいはBは、これと重ね合わせ ると、   E.Xが述部に対してどのような関係をもつとき、述部がXについての情報     として成り立つのか。 という問になる。この答は、   E'-1).Xが述部に対してしかじかの関係をもつとき、述部はXについての       情報として成り立ち、「は」構文として成り立つ。 という形で与えられる場合と、もう一つ、先取りして述べると、   E'-2).Xが述部に対してしかじかの関係をもつときは、さらに、しかじか       の条件を満たせば、述部はXについての情報として成り立ち(ある       いは、成り立ちやすくなり)、「は」構文として成り立つ(成り立       ちやすくなる)。 という形で与えられる場合とがある。  E'-2)は、   F'.しかじかのタイプの「は」構文は、しかじかの条件を満たせば成り立      つ。 というのと同じことであり、   F.各タイプの「は」構文ごとの成立条件は何か。 という問(Aを分解したもの)に対する答だといってもよい。  本稿気蓮■辰砲弔い董■弔隆囘世ら概観しながら、AやBへの関心も加え、 E−E'あるいはF−F'にも及ぶものである。  予め概略を示すと、「は」構文のタイプには、大別して、   Xが述部または述部中の語句に対して格関係か「Xの」で係る関係をもつ    <基本型>   述部中の語句に対して包含関係をもつ<包含型>    <基本型>の変種とみなせる<変種型>   いずれでもない<特定類型> の各種がある。以下、タイプごとに見、それぞれの成立条件に触れる。                         (p.37-39 改行を加えた) ▽菊地は、「主題:対比」とは別の観点で分類するとしています。それは実際にどの ような分類になるのか。大いに興味あるところです。  それと、「NはNだ」型の文は別にしています。「別扱い」にして、それはそれで 詳しく論じるのかというと、そうでもなく、論文の最後の2ページで、自分なりの 分類を提示するだけです。  もう一つ、    「名詞句+格助詞+は」の構文は、本稿ではとりあえず除外する。 というのはどういう理由によるものか分かりません。「東京は」と「東京には」 「東京では」などでは、筆者の分類によると何か決定的な違いがあるということで しょうか。 「情報構造」について  さて、「「は」構文」とはどのようなものと規定されているのでしょうか。    始めに、各種の「は」構文を通じて認められる特徴−−「は」の働き−−を、 概略次のようにおさえておこう。     (★)「は」構文すなわち「Xは<述部>」という文は、「Xについての       情報を述べると〔=Xはどうしたか/どうであるか(等)というと〕,       <述部>」という述べ方をする'情報構造'の文である。 ということですが、この   「は」構文は、〜という述べ方をする'情報構造'の文である。 という書き方で問題になるのは、   「は」構文は「ある種の情報構造の」文であり、それ以外にも「別種の情報構造 の」文があるのか、     あるいは、   「は」構文は「〜という情報構造の」文であり、それ以外の構文(例えば「が」   構文)は、「情報構造が問題にならない」文なのか、 という問題です。  つまり、「親切な日本人」と言うとき、「日本人の中の親切な人」を意味するのか、 あるいは「日本人はみんな親切だ」というつもりなのか、の違いです。  「は」構文以外にも、「情報構造の文」があり、「は」構文はそれと比較されるよ うな独特の情報構造をもっているのか、あるいは、他の構文とは違って、情報構造を もっているということ自体が独特なのか。  私の解釈は後者です。菊地には   「「が」の用法の概観」『日本語文法−体系と方法』ひつじ書房 所収 1997 という論文があり、そこでは「情報構造」ということは何ら問題になっていないから です。  つまり、    「は」構文は「情報構造」の文であり、    「が」構文はそうでない ということです。 ▽つぎは、「が」についての論文から。
菊地康人「「が」の用法の概観」
菊地康人(1997)「「が」の用法の概観」『日本語文法 体系と方法』ひつじ書房     p.101-123 1.「が」の主な用法二種──《中立叙述》と《解答提示》  本稿は、現代語のいわゆる格助詞「が」の用法を概観する。まず「が」の主な二 用法の確認から始めよう。                             (p.101) このように「何がどうした」という事態をそのまままるごと──TとCとに分け るような'加工'をせずに──述べるのが、「が」の(一つの)用法であり、これが黒 田・久野のいう《中立叙述》の「が」である。    (T:トピック C:コメント ──引用者)    (p.102)  ところで、「が」の文は、「山田くんが来た」を例にとれば、上のように話手の 視界内に急に山田君が入ってきたことを述べる《中立叙述》の場合のほかに、「昨 日のパーティー、A大学から誰が来た?」「山田君が来た」というように、「誰/ 何/どこ/いつ/どれが──?」等の疑問詞の質問文に答える──今の例でいえば、 「x(誰か)が来た」という前提があって、そのxを埋める──機能を果たす文とし て使われる場合もある。これが「が」の(あるいは「が」の文の)もう一つの用法 で、久野以来、《総記》の「が」と呼ばれている。                              (p.103)  《総記》というのは、本質的でない面に留意した名付けになってしまった憾みが あり、筆者は、いわゆる《総記》の「が」を《解答提示》の「が」と呼び直したい。                             (p.104) ▽ここに引用したのは、それぞれの問題を議論した後で結論的にまとめられた部分 ですから、その間の議論を読む必要がもちろんあります。その議論をすべて引用す るわけにはいきません。そこは、この論文を手に入れてぜひお読みください。  しかし、それにしてもちょっと面白いと思うのは、格助詞「が」の「主な用法」 と言えば、まず「主格」を示すことなんだと思うのですが、それはあまりにも当然 のことなので一言も触れられていないようです。  私の思うに、上にもちょっとあるように、これらは「が」の用法ではなく、   「が」を使った文 あるいは、より正確に言えば、   「は」によって主題を提示されなかった文の中で、   主格に「が」が使われている文 の「が」がどういう機能を持たされているか、という議論だと言うべきでしょう。  「は」は、積極的に主題を表します。その文は主題文になります。  そして、時に、対比的な意味がかぶさります。  それに対して、「が」は主格を表します。  そして、「は」という主題がない文に使われるということから、上で主張されて いるような、「中立叙述」の文に使われ、「疑問詞が主格に使われた質問文」で使 われる、ということになります。  次は、この論文の最後の部分です。
4.結びと補足
 以上、   (1)「が」には主な用法として《中立叙述》と《解答提示》があること、   (2)これらには連続性も認められること、   (3)このほか周辺的な用法がいくつかあるが、いずれも《中立叙述》の特別な 場合と位置づけられそうである(ケースによっては《解答提示》とも縁続きである) ことを見てきた。実は《中立叙述》的用法と《解答提示》的用法(および3.4以外 の周辺的用法)は、「を」「に」など他の格助詞にも求められるはずだが、他の格助 詞の場合は、こうした区別をことさら意識しなくても、とくに支障なく当該助詞の 用法を論じうるのに対し、「が」の場合は《中立叙述》と《解答提示》の区別が( かなり)分明で、両者を区別しないと十分論じきれない点がまさに特徴だといって もよかろう。  なお、以上の分類と交差する分類として《主語》か《目的語》か《その他》かと いった分類がある。《その他》としては、    崗櫃鼻が長い」のような「の」に対応する「が」(久野のように主語と見 る可能性もある)、   ◆屬海遼椶、A君が書いた」のように他の格助詞(この場合は「を」)が本来 使われるはずのところが「が」になったもの、   「静かな街を歩くのが気分が落ち着く」のように、「の」にも格助詞にも対 応しない「は」(略)が「が」に変わったと見られるもの、がある。これらはこれ らで興味深いテーマであり、菊地1996をあわせて参照されたい。                           (p.116-7) ▽ここに「主語」か「目的語」か、という話がありました。しかし、やはりこちら が「が」としては基本だと思うのですが、、。  「象が鼻が長い」の「象が」は「その他」に入れられています。これは「主格」 でいいと思います。「「の」に対応する」というのは、「象」と「鼻」がそういう 意味関係を持っているというだけのことで、「の格(属格)」の関係だということを シンタクスとして認める必要はありません。  たとえば、    ピッチャーが顔をハンカチで拭いた。 という場合に、「ピッチャーの顔」「ピッチャーのハンカチ」であるわけですが、 それぞれ「の格」の関係だという必要はないでしょう。特にほかの誰かのものでな い限り、主題と関係づけて解釈される(だから話し手もそのように見なして使える) というだけのことです。  △鉢も、「主格」でいいとは思いますが、その説明はまた別に考える必要があ ります。 (tuduku)

西山佑司(2003)『日本語名詞句の意味論と語用論』

 西山のこの本は、ぎっしりと内容の詰まった、読むのが大変な本です。私はまだ読 んでいません。少し拾い読みしただけです。  内容の紹介は、著者の「はじめに」にまとめられていますので、それを引用します。 西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論       −指示的名詞句と非指示的名詞句−』ひつじ書房(2003)  はしがき  第1章 名詞句の意味と解釈 1  第2章 指示的名詞句と非指示的名詞句 59  第3章 コピュラ文の意味と名詞句の解釈 119  第4章 「象は鼻が長い」構文の意味解釈 189  第5章 「鼻は象が長い」と「魚は鯛がいい」構文の意味解釈 225  第6章 カキ料理構文と非飽和名詞 259  第7章 ウナギ文と措定文 321  第8章 倒置指定文と有題文 351  第9章 名詞句の解釈と存在文の意味            393   参考文献                        425 本書の目次だけを見ると、名詞句の問題に触れているのは1、2、3、6、9章だけで あり、他の章(4、5、7、8章)は、名詞句とは無関係のトピックではないかと思われ る読者もあるかもしれない。しかし、実は、どの章も名詞句の扱いが議論の鍵になっ ているのである。いうまでもなく、名詞句の意味については、名詞句だけを切り離し て論じることのできる性質の問題もあるが、それと同時に、名詞句が登場する文のな かでの意味機能という観点から論じられてしかるべき問題もある。  第1章は前者の問題を「NP1のNP2」という形式の名詞句を例にして論じており、 第2章以下は、後者の問題を論じている。名詞句が登場する文として、もっとも単純 で基本的なものは「AはBだ」や「BがAだ」というコピュラ文である。そこで、第 2章と第3章では、コピュラ文における名詞句がもつ指示性・非指示性という観点か ら、名詞句の文中での意味機能を徹底的に分析している。  この分析にあたって、もっとも重要な役割を果たすものは、非指示的名詞句のひと つのタイプである「変項名詞句」という概念である。筆者は、この概念を自然言語の 意味論のなかに新しく導入することによってこそ、日本語学の中心的課題のひとつで ある「は」と「が」の問題ばかりでなく、コピュラ文の意味と構造にたいしても、さ らには、一見コピュラ文とは関係ないように思われる変化文(「Aが変わる」)や存在 文(「Aがいる/ある」)の意味と構造にたいしても、新しい光を投げかけることがで きると考えている。  たとえば、第4章では、日本語学・国語学でもっとも議論の多い「象は鼻が長い」 構文をとりあげ、この構文の意味構造を、名詞句の指示性・非指示性を考慮したコピュ ラ文の意味構造の観点から再検討している。第5章では、「象は鼻が長い」構文と類 似している「鼻は象が長い」構文や「魚は鯛がいい」構文について、やはり名詞句の 指示性・非指示性を考慮したコピュラ文の意味の観点から詳細な分析を試み、この種 の構文と「象は鼻が長い」構文との本質的な違いを解明している。また、第7章では、 いわゆる「ウナギ文」の問題を、コピュラ文のもつ意味論と語用論の接点領域の問題 として再構築し、「隠された変項名詞句」という観点から「ウナギ文」にたいして従 来の分析とは異なった分析を提示している。                    (「はしがき」p.i-髻_行は引用者) ▽いかにも面白そうな本なのですが、読み始めると、なかなか大変です。  内容を少しずつ紹介していきたいと思っています。

§5.2 「は」と「が」の基本

以前、アルクの掲示板で質問に答えたときに書いてみたものです。少し書き直しました。 基本の基本をできるだけ短く、という試みです。            『は』と『が』の基本 「が」の用法の基本: 1 あるとき、何かを見たり感じたりして、それをそのまま述べるようなとき。     教室に学生たちがいる。     電車がホームに入ってきた。     木が揺れている。     ずいぶん人が多いなあ。     見て! 空が真っ赤だよ。 2 疑問語に付けて質問するとき+その疑問語に答えるとき。     誰がいるの? 学生たちがいるよ。     何があった? 電車の事故があったらしい。     どれがおいしい?  これがいいよ。 3「〜は〜が」文の「が」。(何かの部分や、ある種の述語の対象となるもの)     象は鼻が長い。     この辞書は表紙が赤い。     私はお酒が好きだ。     彼は中国語がわかる。 「は」の用法の基本: 1 何かを頭の中に思い浮かべて、それについて情報を述べたり、質問したりするとき。      えーと、財布、財布、、、あ、ここにある。 → 財布はここにある。    (人を探して)陳さーん、陳さーん。陳さんはどこへ行ったんだ? 2 話の場にあるもの、話に出てきたものなどについて情報を述べたり、質問したりするとき。    あ、おいしそうなお菓子! (食べてみて) このお菓子はおいしいね。    もしもし!(あなたは)どちらへいらっしゃいますか?    「これはどこにおく?」「それはあっちに持って行って。」    「中学の時の先生が亡くなったって聞いて悲しくなっちゃった。」「その先生は    何歳だったの?」 3 一般的な事実(真理)などを述べるとき。(「が」の用法1との違い)     学生は学校に毎日通う。     電車は線路を走る。     植物は肥料をやるとよく育つ。     雨は冬より夏にたくさん降る。(東京では) cf. 雨が降っている。(今、目の前で) (1・2・3は結局、「話し手(と聞き手)がその場で頭に思い浮かべられるもの」とまとめる ことができる。)      4 何かの部分や「〜は〜が」文の「〜が」について、特に対比の意味を持たせて言いたいとき。 私は中国語は少しわかる。(韓国語はぜんぜんわからない。)     象は、鼻は長いが、足は短い。      私は日本酒は好きだけれど、ウイスキーは好きじゃない。

§5.3 「が」と「は」の話

以前「日本語オンライン」に投稿したものです。書き直してのせたかったの ですが、とりあえずそのままのせておきます。  「概説」本文とはずいぶん違ったものになっていますので、興味のある方は ご覧ください。 「が」と「は」について   07・4  1「が」の基本(1):中立描写 Neutral description  人が言語で世界を描写しようとして、そこで起きていること、起きたことの[全体] をできるだけ[そのまま]表そうとしたときのことを考えます。  そこで起こっていること(現象)の「参加者」を名詞で表し、その動きを動詞で表し ます。名詞と動詞の関係を[格助詞](ガ・ヲ・ニ・デ・・・)で表します。  「公園のベンチで」    公園のベンチに男と女が座っている。 1    男が女に何か言う。 2    女が立ち上がる。 3    男が女の顔を見上げる。   4    女が立ち去る。 5  一つ一つの出来事を、それだけを(前後のつながりを考えず)描写していて、昔の無 声映画をぼんやり見ているようです。  これをすべて過去形にすれば、過去の出来事の描写になります。    公園のベンチに男と女が座っていた。 1    男が女に何か言った。 2    女が立ち上がった。 3    男が女の顔を見上げた。    4    女が立ち去った。 5  ここで、格助詞「が」は、動作を行う主体 agent/do-er を示すだけです。「新情報」 とか、「焦点」とか、そういう説明の用語は必要ありません。  それは、他の格助詞「を・に・で」などでも同じです。現象を描写するため、その構 成要素である名詞と動詞の関係を示す、それだけのために使われています。「が」も、 本来はそういうものです。  もし、「新情報」ということばを使うなら、上の「公園のベンチ」の文はすべて、そ の文全体が「新情報」になっています。一つ一つが新しく起こったこと、話し手も聞き 手も予想していなかったこととして、描写されています。    (どんなことがあったか)    公園のベンチに男と女が座っていた。 1    (何が起こったか)    男が女に何か言った。 2    (何が起こったか)    女が立ち上がった。 3    (何が起こったか)    男が女の顔を見上げた。    4    (何が起こったか)    女が立ち去った。 5  「何があったか」「何が起こったか」という質問は、この世界の描写として、何かが あり、何かが起こるということだけを前提としていて、特にその世界の中の[何かにつ いて]質問しているわけではありません。  その答えとしての文は、全体が「新情報」です。     学校の門のところに誰かが立っている。    隣の部屋から音楽が聞こえてくる。    冷蔵庫にプリンがあるよ。(おやつの時間に、親が子供に)    おや、雨が降ってきた。    きのう、佐藤さんがメールをよこした。    きょう、僕が宿題をやっていかなかったので、先生が怒った。    西の空が真っ赤だ!    うわー、ビールがうまいねえ!   動詞文では「が」の文は珍しくありませんが、形容詞文では使い方が限定され、この 意味の「が」の文はあまり使われません。 2「は」の基本(1):主題 Topic/Theme  しかし、上のような文ばかりでは、人間の情報伝達communication/discours としては 不充分なものです。それぞれがある一つの情報を表しているだけで、話がつながりません。  上の「公園のベンチ」で起こった一つ一つのこと自体はそれぞれつながりがあり、全 体で一つの出来事になっていますが、それを描写した文は、一つ一つがバラバラで、話 し手は「一つの話」を作ろうとしていません。  人間は、起こっていることをそのまま描写する以外に、その出来事の中のある要素に 注目し、それを取りだして、[それについて]何らかの情報を述べたり、求めたりしま す。それを文の「主題」とし、それについて語るわけです。  「レストランで」    男がレストランで食事をしている。1    ドアが開いた。 2    男は顔をあげた。 3    女が入ってきた。 4    男は女を見た。         5    女は空いたテーブルを探していた。6    男は女の顔を見ていた。 7    女も男を見た。 8    男は、自分の前の席を目で示した。9    女は男のテーブルに近づいた。 10  1は場面の描写。2はそこで新しく起こったことの描写。  3で、話し手は「男」に視点を置き、その男[について]情報を付け 加えています。「ドアが開いた」ことに対して、「男」はどう反応したか。    ドアが開いた。    (次に何が起こったか)    男[が]顔をあげた。 ではなく、    ドアが開いた。    (男は? 男はどうしたか)    男[は]顔をあげた。 という「話のつながり」を作っています。  4は、「男が顔をあげた」状況で、何が起こったか、という描写。  5で、話し手は引き続き「男」を主題にし、「男についての話」を続けています。    女が入ってきた。  4    (男は? 「顔をあげた」男はどうしたか)    男は女を見た。          5    (では、女は? 「入ってきた女」はどうしたか)     女は空いたテーブルを探していた。 6  6で、話し手は「入ってきた女」に注目し、「女」に主題を移します。「女」につい て、「何をしたか」という情報を述べます。  そこから、「男」と「女」を交互に主題にして、「男と女」の話を続けていきます。 ドラマが始まります。 [主題とは]  主題の文、「〜は」の文は、その名詞について、ある情報を述べる文です。    主題+は、[主題に関する情報]。  Topic - Comment という形の文です。  「は」のあとに「、」を打つことが多いのは、「そこで切れている」という話し手の 気持ち、つまり文構造を表しています。 (それに対して、上の「〜が」の文は、全体で一つのまとまりです。)  話し手は、聞き手に対して「主題」を示し、今からこれについて話すぞ、という態度 をとります。聞き手は、主題を示されると、それについての情報がその後に来るのだと 理解します。  主題は、「それについて情報が述べられるもの」、それについて語られるべきもの、 です。ですから、主題は、話し手と聞き手にとって知られているもの、「何について話 しているか」が明らかであるものでなければなりません。 (ですから、「疑問語+は」という形、「×だれは〜」「×どこは〜」という質問文は ありません。必ず「だれが〜」「どこが〜」となります。) [旧情報・ハと質問文]  そこで、「〜は」は、「既知」(Known)の概念に付くとか、「旧情報」(Old Information) を表す、というふうに説明されます。  しかし、この「旧情報」というのはよくわからない概念です。  たとえば、人を捜しているとき、電話で、    「すみません、そこに田中さん[が]いますか」 というのはちょっと不自然で、    「すみません、そこに田中さんはいませんか」 というのが普通です。(「いませんか」と否定で聞くのは、「いることを期待している 気持ち」の表れとして、ここでは問題にしません。)  問題は、なぜ「は」なのか、です。  この電話では「田中さん」という言葉が初めて使われています。仕事をしているとき、 電話がかかってきて、とると、    「受付の佐藤ですが、営業の田中さんはそちらにいらっしゃいませんか」 と聞かれるわけです。   質問者も、聞かれた人も、「田中さん」を知ってはいるのですが、この文脈Context では、 話に出てきていません。この「田中さん」は、「旧情報」でしょうか。   ここで、「田中さん」は、話し手も聞き手も、それが誰だか知っていて、誰「について」 話しているのかすぐわかるような人であることが必要です。「それ」について、情報を求め ているのですから、「それ」は、両者に知られているものでなければなりません。「既知」 がそういう意味なら、たしかに、主題は既知のものでなければなりません。「は」を使った 質問文の形は、     田中さんは、そこにいますか。     田中さん(主題)+は、[聞きたい情報]+か。 となります。 [ガと質問文]  では、「が」ではなぜ不安定なのでしょうか。    「すみません、そこに田中さんがいますか」 という文が表しているのは、    [[そこに田中さんがいる]ということが起こっている]か  というようなことです。「〜が」の文ですから、ある事実の存在・非存在を聞いています。  これは不自然でしょう。「田中さん」の質問文では、「田中さん」について、「いるか いないか」が聞きたいのです。ですから、「田中さんは〜」と「田中さん」を主題にして 聞くのが自然です。  「〜が」を使った質問文は、例えば、    (雨のような音がするので)「雨が降ってきたの?」    と質問するような場合です。これは、    [[雨が降ってきた]ということが起こっている]か という質問になります。「雨が降ってきた」全体が一つのまとまりになっています。  「雨」について質問するなら、    (さっき降っていた)「雨はもう止んだ?」 のような文になります。一般的な「雨」ではなくて、話し手と聞き手の頭の中にある (「既知」の)、(さっきの)「雨」についての質問です。    「雨は降ってきた?」 という文なら、「天気予報で降ると言っていた、話し手が心配していた、その雨」が 「降ってきたかどうか」という質問です。  「が」を使った質問文で、より不自然なのは(そして、日本語学習者がよく使うのは)、      田中さんがどこにいますか。 のような質問文です。「どこにいますか」という疑問語を含んだ質問は、疑問語の部分が 「聞きたい情報」であるわけです。それなら、上の、     田中さん(主題)+は [主題に関して聞きたい情報]か。 のような主題をもった「は」の文にしなければなりません。     田中さんはどこにいますか。 です。  主題の「田中さんは」の部分だけでも、質問の意味合いがあるのです。     田中さんは? (田中さんは)どこにいますか?  [電車が来た]  駅で、電車を待っているとき、     A「(電車は)まだ来ませんねえ。遅れているんですかねえ。」     B「そうですねえ。(電車は)遅いですねえ。」     (数分後、自動販売機でコーヒーを買っているAに)     B「あ、来ました。電車が来ましたよ。」  初めのやりとりでは、AとBは、「電車について」、それを主題にして、話をしています。 「は」を使っています。  それに対して、最後の文では、Bは「電車について」「来たかどうか」を報告している のではなく、自分が見たことを、そのまま「一つの事実として」Aに伝えています。     「電車は来ましたか、まだ来ませんか」 という質問に対して、思考し、判断し、     「(電車は、とうとう)来ました。」 と落ち着いて述べるのではなく、その時、見たままを、     「あ、来ました。電車が来ました。」 と報告したのです。  この違いは、過去の話として文章にまとめるような場合でも同じです。 1-1 昨日、駅でAさんと電車を待っていました。電車[は]なかなか来ま     せんでした。 2 Aさんは、コーヒーを買って飲んでいました。  3 結局、電車[は]20分ほど遅れてきました。   2-1 昨日、駅でAさんと電車を待っていました。    2 電車[は]なかなか来ませんでした。    3 Aさんが2杯目のコーヒーを販売機で買おうとしたとき、やっと     電車[が]来ました。  1の例では、1-3でも「電車」を主題として扱い、「は」を付けています。  しかし、2の例になると、2-2では主題として「電車は」としていたのに、2-3では 「電車が」にしています。  これは、話し手が「Aさんがコーヒーを飲もうとして、販売機で買っていたとき」と いう形で場面を設定し、「その時、何が起こったか」を述べようとしたためです。  言い換えれば、2-2と2-3の間で、小さな場面の転換を作っているのです。  同じ文を使って主題を変えずに続けようとすれば、次の3のようになります。   3-1 昨日、駅でAさんと電車を待っていました。   2 電車[は]なかなか来ませんでした。 3 電車[は]、Aさんが2杯目のコーヒーを販売機で買おうとしたと     き、やっと来ました。  これでもいいのですが、なんとなく単調な感じがします。特に、すべてを過去のこと として、今から振り返って話している感じです。  それに対して、2のほうが、「そこで起こったこと」をそのまま伝えるような感じが するので、その場にいるような雰囲気が(少し)あります。  「は」を使って主題を続ける文と、「が」を使って事実の報告をする文と、この使い 分けが、例えば小説などではうまく行われているわけです。 3 「が」の基本(2):「焦点」 Focus (「指定」) [「が」と焦点]  最初に述べた「が」の基本的な用法、「主体」を表す用法の他に、「が」は「情報の 焦点」を表すと言われることがあります。    太郎、次郎、三郎の三人の中で、誰が昨日ここにいたか。    太郎がいた。 というような例の中の「誰が」「太郎が」の「が」です。  これは、「中立描写」の、    あ、あそこに太郎がいる。 という場合の「が」とは違う、というのです。  しかし、それは「を」や「に」でも同じことではないでしょうか。    ラーメン、うどん、そばの中で、ゆうべ何を食べたか。    ラーメンを食べた。  質問文の「焦点」の「何を」と、それに対する答えとしての「ラーメンを」 の「を」は、確かに焦点の位置にあります。しかし、それは「を」の働きではありません。 「を」は「対象」を示しているだけで、「焦点」であるのは、「何」という疑問語を使 った疑問文で、その「疑問の焦点」(その疑問文で聞きたいこと)の「何」に付けられ ているからです。  「が」も同じです。上の「誰が」は、疑問文の焦点である「誰」に「が」が付けられ ており、その答えの焦点である「太郎が」にも「が」が付けられている のですが、「が」が焦点を示しているわけではありません。 [「は」と焦点]  すでに述べたように、主題を示す「は」は焦点となる語には付けられません。 主題 は、それについて情報を述べられるべき語です。情報の焦点は、主題のあと、文の後半 にあります。    主題+は、[文の/情報の 焦点]。 例えば、    太郎は、何を食べたか。    太郎は、ラーメンを食べた。    そのラーメンには、何が入っていたか。    そのラーメンには、チャーシューやメンマが入っていた。    ラーメンは、どこで売っているか。    ラーメンは、駅前の食料品屋で売っている。    その食料品屋では、ラーメンの他にどんなものを売っているか。    その食料品屋では、いろいろな食料品を売っている。  主題となるのは、    主体「太郎」    場所「ラーメンに」    対象「ラーメンを(売る)」    場所「食料品屋で」 など、いろいろな格助詞のついた「補語(格case)」です。  また、焦点となっているのは、「何を」「何が」「どこで」「どんなものを」などです。    主題: 〜が、〜を、〜に、〜で  ⇒ 〜は、〜には、〜では    焦点:誰が、何を、どこに、どこで  主題の「は」は、「が・を・に・で」など、いろいろな格助詞のつく「格」を「主題 化」します。    「は」:「が」 の対立なのではなく、    「は」:「が・を・に・で・・・」 の対立なのです。「が」は格助詞の中で特別なものではありません。  焦点のほうも、「が」だけではなく、「を・に・で」なども同じように焦点になれる わけで、つまりは、「が」に「焦点を示す」という機能があるわけではありません。  A-1「は」は、主題となる名詞につき、主題であることを表す。  A-2「が」は、主体の名詞につき、主体であることを表す。  B-1 主体の名詞が主題になるときは、「が」でなく「は」が付けられる。  B-2 主体の名詞が文の焦点となるときは、「が」のままである。 このB-2の場合に、「文の焦点となる主体には「が」が付けられる」と言うべきところを、   「焦点となる主体には「が」が付けられる」→「「が」は焦点を示す」 と、多少誤解して言っているのが、   「が」の用法:「焦点」を示す という、よく言われることなのでしょう。 要するに、焦点には「は」は付かないから、「が」が付く、というだけのことなのです。  ただ、教育的には、「は:主題」「が:焦点」と教え、そう覚えてしまっても、実際 の使用法がわかっていれば、それほど問題はないと言えるでしょう。

§5.4 「主語」という用語について

「主語」についての考え方に関するメモです。いわゆる「主語否定論」をめぐっては いくつかの考え方があります。それぞれの主張を私なりのとらえ方でまとめてみます。 0 日本語にも「主語」はもちろん存在する。 (「主語」肯定論)  0-a 英語と日本語の「主語」は、基本的に共通する概念であり、言語の普遍的    な性質を示している。  0-b むろん、言語による違いもあるが、それは本質的な問題ではない。  0-c 日本語では「名詞+が」が主語を示す。その名詞が「主題化」された場合    は「〜は」になる。  0-d 「私は果物が好きだ」などの「果物が」は主語ではない。目的語である。    ある種の述語は、この「目的語を示すガ」を要求する。  0-e 「〜は」は「主題」であり、「主語」を示す形ではない。「〜は」は「主    語」を兼ねることも多いが、そうでない場合も多い。  1 英語などの「主語」と日本語の「主語」は(非常に)違った性質のものだ。   (日英「主語」異質論)  1-a 英語には英語の「主語」があり、日本語には日本語の「主語」がある。  1-b だから、その性質の違いによく注意することが必要である。  1-c その違いがわかっていれば、日本語文法で「主語」という用語を使うこと    はかまわない。  (こう考える文法研究者は多いと思います。)  1-d 日本語で「主語」という用語を使うと、誤解されやすいので、使わないこ    とが望ましい。代わりに、たとえば「主格」などの用語を使うのがよい。  (こう考える人も多いと思います。私はここに入ります。) 2 日本語には「主語」というものはない。 (「主語」否定論)  2-a 日本語の文法で「主語」という用語を使ってはいけない。  2-b 「主語」という用語は、英語などいくつかの言語だけに使える用語で、世    界の言語に共通するものではない。  2-c 「主語」を日本語の文法で使う人は、日本語の文法がわかっていない。  (こうまで言う人はあまりいないと思いますが、声はけっこう大きいです。) 3 日本語に「主語」と呼べるものはあるが、英語とはその位置づけが違う。  3-a 世界の言語には、「主語優位型」の言語と「主題優位型」の言語がある。  3-b 英語は「主語優位型」であり、日本語は「主題優位型」である。    (英語にも「主題」はあり、日本語にも「主語」はある。)  (「言語類型論」の言語学者の言い方です。) それぞれの内部でもいろいろと人によって考え方が違います。 ここに大まかにまとめた以外の考え方もいろいろあると思います。 (この記事は、「前書きへの補説」および「補語のまとめ」の補説にも同じものがあります。)
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