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ホーム文法庭三郎


                                                                     
 

 24.アスペクト

    24.1 概観     24.2 動詞の時間的性質      24.3 V−ている     24.4 する・した     24.5 V−てある     25.6 V−ておく     25.7 V−てしまう     24.8 V−ていく/くる     24.9 V−ところだ     24.10 V−たばかりだ     24.11 V−たことがある     24.12 V−つつある     24.13 V−ようとする     24.14 複合動詞     24.15 時間表現のまとめ      補説§24 24.1 概観 24.2 動詞の時間的性質     24.2.1 状態動詞 24.2.2 動きの動詞の分類   1 時に  [動きの長さということについて]   2(時から)時まで・期間    3 時までに   4 期間で 24.3 V−テイル   24.3.1 進行中の動き 24.3.2 動きの結果の状態 24.3.3 その他の用法 [習慣・反復][経験・記録][単なる状態] 24.3.4 特殊動詞 24.3.5 自他とテイル 24.3.6 別の分類:変化動詞   [対象変化動詞] 24.3.7 「V-テイル」が言えない動作  24.3.8 反復動作      24.4 スル・シタ [状態動詞][継続動詞][瞬間動詞][変化動詞] [完了のタ][完了のタとテイル]    24.5 V−テアル [NヲV-テアル][〜トV-テアル][自動詞+テアル] [否定の形][テイルとテアル]      24.6 V−テオク   24.7 V−テシマウ [否定の形] 24.8 V−テイク/クル [元の意味が生きている場合][並行する場合] [行き方・来方を表す場合][その動作の方向を示す場合][時間的な方向を示す場合] [動詞の意味による制限] 24.9 V−トコロダ [いくつかの制限]   24.10 V−タバカリダ   24.11 V−タコトガアル [シタ・シテイル・シタコトガアル][〜/ナイ コトガアル] 24.12 V−ツツアル 24.13 V-(ヨ)ウトスル 24.14 複合動詞   24.14.1 動きの始まり V−始メル・出ス・カケル  24.14.2 動きの継続  V−続ケル・続ク  24.14.3 動きの終わり V−終エル・終ワル・ヤム 24.15 時間表現のまとめ  24.15.1 アスペクト形式の重なり  24.15.2 事柄の「時」の表し方 補説§24  §24.1 「テイル」と「見る」こと §24.2 「テイル」の範囲について §24.3 「基準時/参照時」  §24.4 「テシマウ」  §24.5 工藤真由美の動詞分類 §24.6 『現代日本語文法3』 §24.7 「〜ないでいる」と「〜ていない」  

24.1 概観 

 述語と「時間」の関係の一つとして、「テンス」を考えてきました。次に、 もう一つの重要な時間の表し方を見てみましょう。「アスペクト」とは耳慣れ ないことばかもしれませんが、最近の文法書ではよく使われます。「相」と翻 訳することもありますが、「ソウ」だけでは耳で聞いてわかりにくいし、耳新 しいことばの方がかえって強く印象に残っていいという利点もあるので、カタ カナ言葉を使うことにします。英語の「aspect」です。  文法書によると、アスペクトとは「始まりと終りをもつある動きの過程を、 その過程のどの段階に注目して表現するか、による表現の使い分け」のことだ などと書いてあります。が、これでは何だかわかりません。具体的な例を見て みましょう。      ごはんを食べます。      ごはんを食べ始めます。      ごはんを食べています。      ごはんを食べました。      ごはんを食べてしまいました。 などに見られる違いです。これらはどこが違うのでしょうか。上の定義をもう 少しふつうのことばで言えば、「時間の流れの中で、ある事柄が起き、続き、 終わる、そのことの表わし方」とでも言えばいいでしょうか。それぞれの用法 については後でくわしく見ます。  アスペクトの違いを持つのは、上の定義からもわかるように、動きの動詞だ けです。状態を表す動詞や、形容詞・名詞述語ではアスペクトは問題になりま せん。しかし、アスペクトも、時を表す表現全体の中で考える必要があります から、状態を表す動詞も無関係ではありません。  アスペクト表現の中心は、動詞の基本形とタ形、それに動詞の活用形のあと に補助要素がついた複合述語です。補助要素としては、動詞の「テ形」に続く ものと、中立形に続くものがあります。  「テ形」に続くものの代表は「V−ている」です。これは動詞のテ形に動詞 「いる」がついた形ですが、この「いる」はふつうの存在の意味を表す「いる」 とは違います。本来の「存在」という意味を失って、助動詞のような働きをし ています。  このような、「V−て」に続く「いる・ある・しまう」などを「補助動詞」 と呼ぶことにします。      食べている   立っている   来ている      置いてある   開けてある   調べてある       食べてしまう  割れてしまう  寝てしまう  「V−ている」は非常によく使われる基本的な表現で、用法がいくつかに分 かれ、その習得には十分な練習を必要とするものです。  動詞の中立形を使うアスペクト表現は、「V−始める」「V−続ける」など のいわゆる複合動詞です。      食べ始める   降り続ける     そのほかにも、形式名詞を使った「V−ところだ」、副助詞による「V−ば かりだ」などがあります。      始めるところだ   着いたばかりだ  これらの意味・用法については、それぞれの項目で見ていくことにしますが、 まず、かんたんに問題点を一通り見ておきましょう。  これらのアスペクト表現の基本になるのは、動詞自体の時間的性質です。前 に述べたように、時を表す補語とそれをとる動詞との間には制限があります。  「2時に」のようなある瞬間を示す補語と「働く」のようなある長さを必要 とするような動詞は共に使うことはできません。     ×2時に働きます。  このような、動詞自体の持っている時間的性質をまず明らかにする必要があ ります。それには、時を表す様々な補語との制限関係を調べてみることが有効でしょう。  次の節で見るように、動詞はその時間的性質によって、「状態動詞・継続動 詞・瞬間動詞」という分類が考えられます。さらにもう一つ「特殊動詞」とい うのがあり、ぜんぶで4種類に分けることが一般に行われています。  その時間的性質によって、動詞の後に付く表現の用法の制限があり、複合述 語全体として表わす意味が決まります。先程の「V−ている」も、その動詞が 「状態・継続・瞬間・特殊」のどれであるかによって、「−ている」の付き方、 付いた時の意味が違ってきます。  前に(4.1.1)述べたように、「動き」の動詞の現在形は、今現在のことをふつ うは表せません。そのためには「V−ている」の形を使います。     ×現在、佐藤さんは難しい本を読みます。       現在、佐藤さんは難しい本を読んでいます。 (「今」という言葉は、「今、行きます」「今、来ました」のようにすぐ後の こともすぐ前のことも指せるので、上のような例文のチェックはできませんか ら、あまり使わない言い方ですが「現在」にしておきます)  このことは、英語でも似た事情があるために、日本語学習者にも理解しやす いところです。問題は、この「V−ている」の表し得る意味がこのような「現 在進行中」という単純な意味だけではないことです。      私は毎日学校に行っています。      あの子は学校に行っています。      母は今買い物に行っています。  初めの例は「習慣」を表します。最後の例は「母」が今現在出かけていて、 家にいないということでしょう。では真ん中の例はどうなりますか?「毎日」 なら習慣で、「今現在」なら後の意味です。  具体的な場面では、状況によって意味が確定するので誤解は起こらないでし ょうが、こういうところが日本語学習者にはわかりにくいところになるでしょ う。また、      3時から5時まで本を読みました。                3時から5時まで本を読んでいました。 の違いは何でしょうか。何か違うようですが、学習者にわかるようにはっきり と言い表すのは難しいことです。そしてまた、日本語教育の世界では有名な例 ですが、      窓が開いています。      窓が開けてあります。 の違いを(体系的に)どう説明するかも重要な問題です。「ている・てある」 という補助動詞の違いだけでなく、自動詞・他動詞の対立の問題もからんで来 ます。  「テンス」の項で見たように、「た」が単純な過去を表さない場合がいろい ろありますが、その中で、アスペクトの一つである「完了」を表す場合があり ます。      昨日来ました。(過去)      もう来ました。(完了)  ほかにも、「た」と関係のある表現がいろいろあります。      今来たところです。      もう来てしまいました。      前に来たことがあります。  これらの表現の意味は、そしてそれらはどんな場合に使えばいいのか。その すべてを明らかにすることはとうていできませんが、これから一つずつ考えて 行くことにしましょう。では、まず動詞自体の時間的性質について考えてみま す。

24.2 動詞の時間的性質

24.2.1 状態動詞

 動詞の時間的性質を考えると、まず特徴的なのは「状態」を表す動詞です。 前に(4.1.2) 述べたように、「状態」を表す動詞は「話している今、現在」の ことをそのままの形で表せるという点で、一般の「動き」の動詞とは大きく違 っています。「状態動詞」と呼ぶことにします。      (現在)それは机の中にあります。     ×(現在)彼は図書館で勉強します。(→勉強しています)  状態動詞の例をもう少しあげておきます。範囲を少し広くとります。    存在・必要  ある・いる・存在する・要る・要する・かかる・・・      可能     できる・来られる・読める・食べられる・・・      関係     合う・似合う・違う・異なる・含む・成る・・・     思考・感覚  わかる・見える・聞こえる・思う・感じる・痛む・・・       日本語の勉強にはいい辞書が要ります。      家から会社まで1時間かかります。      参加費は往復のバス代を含みます。      日本列島は4つの大きな島と、多くの小さな島から成る。      留学生はそれぞれ母語や文化が違います。 遠くに富士山が見えます。  初めの「存在・必要」と「可能」が典型的な状態動詞です。「関係」のとこ ろの動詞は、「V−テイル」の形でも使われます。  「思う」以下は思考・感覚を表す動詞で、必ずしも「状態」ではありません。 例えば、医者が麻酔注射をした後で、患者の体にちょっと触って、      「感じますか」「いいえ、全然感じません」 というような場合は、瞬間的なものでしょう。けれども、状態を表すときにも そのまま使えるので、状態動詞としておきます。      「まだ痛みますか」「ええ、朝からずーっと」(?痛んでいますか)

24.2.2 動きの動詞の分類

 次は動きの動詞の分類ですが、「4.6 時を表す助詞」でとりあげた「時の補 語」との関係を見てみます。どんな動詞が、「時ニ」「時マデ」「時マデニ」 「期間デ」などとともに使われるかを調べます。

 峪ニ」

 まず、「時ニ」とともに使われる動詞は多くあります。      2時に 始まる/出発する/帰る/変わる/死ぬ       日曜日に 勉強する/働く/本を読む/犬小屋を造る/雨が降る  「2時に」は瞬間を表しますから、それとともに使われる動詞は瞬間的な動 き、あるいはある長さを持つ動きの始まりまたは終わりを表す動詞です。      私は朝9時に会社に行って、夕方5時に帰ります。      父は夕方5時に会社を出て、6時にうちに帰ります。  「帰る」は、上の例では1時間を要する動作ですが、「時に」とともに使わ れると、その初めか終わりの時点の行動を表します。  このような、瞬間的な動き(「変化」を含む)動詞を「瞬間動詞」とします。  同じ「時に」でも、「日曜日に」の場合は、継続する動きの動詞も使えます。 「4.6」でも述べたように、「江戸時代に」とか、地質学で「カンブリア紀に」 などと言うとかなり長い期間を指すことができます。しかし、時間の幅そのも のを指すのではなく、あくまでも全体を一つのまとまりとして見なしています。 動詞の示す事柄は、その中で起こるのです。「アイダ」と「アイダニ」の違い に似ています。      江戸時代の270年の間に、商業が発達した。      江戸時代の270年の間、徳川家が日本を支配した。(×間に)  どちらもその期間の全体を指すのですが、「に」があると、その中で起こっ たことと見なされます。ですから「徳川家」の例では合いません。

[動きの長さということについて]

 さて、初級の学習者の作文に次のような誤用が出ることがあります。      私は今日6時に起きて、7時に朝ごはんを食べました。     ?8時に学校へ行って、9時に勉強をしました。 「勉強をする」は継続する動作ですから、「9時に」のような時間の点を表わ す表現とはいっしょに使えません。  それはすぐわかるのですが、では「7時に朝ごはんを食べる」という表現は なぜ許されるのか、と聞かれると困ります。「食べる」にはある時間の長さを 必要としますが、上のように「7時に」といっしょに使っても、不自然さを感 じません。  このような日常の習慣的動作で、しかもその終りがはっきりとある動作は、 実際には長さを必要とするものでも「〜に」と共に使えるのだと考えるしかな いようです。「勉強をする」のような、どこまですれば終りかが、その動詞の 意味内容からははっきり決められない動詞はだめです。

◆屐併カラ)時マデ」・期間

 「1時から3時まで」あるいは「2時間」のように時間の幅を表す表現とと もに使われるのは、継続する動きです。これを「継続動詞」とします。  それと、状態を表す動詞・述語も使えそうですが、状態動詞の多くは、可能 を表す動詞や「わかる」「見える」「似合う」「違う」「含む」など、時間と は関係のないものが多いので、それらはだめです。      2時間 勉強する/働く/本を読む/ワープロを打つ/手紙を書く       /雨が降る/日が照る/家が燃える      1時から3時まで いる/ある/忙しい/暇だ/店番だ  形容詞・名詞述語も、意味的に自然かどうかによります。     ?2時間 大きい/きれいだ/学生だ/私の本だ      90年から94年まで学生でした。  瞬間的な動きを表す動詞は、もちろん使えません。     ×2時間 始まる/死ぬ/着く/割れる/始める/殺す  ただし、,鉢△領省に使える動詞はあります。      1時から3時まで 寝る/乗る/会う/外に出す/冷房をつける      1時に 寝る/乗る/会う/外に出す/冷房をつける  「時カラ時マデ」のほうは、その動作が続いていることを表し、「時ニ」の ほうはその動作の始まりの点を表します。  「瞬間動詞」と「継続動詞」を分けるには、上の,鉢◆△弔泙     孱音に」のような瞬間を示す時の補語とともに使えるか、    ◆屐併カラ)時マデ」あるいは期間を表す表現とともに使えるか を考えればいいわけですが、一般には、あとでとりあげる「V−テイル」の用 法を説明する際に、その二つの主な用法とからめて説明されることが多いので す。しかし、その基本には上のような時の補語との関係があるということをお さえておく必要があると思います。

「時マデニ」

 さて、以上で「継続動詞・瞬間動詞」に大きく分けられるとしても、ほかの 時の補語との関係で、また別の動詞の性質が見えてきます。  まず、「時マデニ」とともに使える動詞、使えない動詞はどんな動詞か考え てみましょう。瞬間動詞と継続動詞(の一部)はいいようです。      3時までに 出発する/来る/月が沈む/洗濯物が乾く/ケーキが       焼ける/会議を始める/夫を殺す/作文を書く/料理を作る     ×3時までに 働く/歩く/部屋にいる/忙しい/暇だ/病気だ  形容詞や名詞述語、状態動詞がだめであることは当然としても、継続動詞の 中でいいもの(作文を書く・料理を作る)とだめなもの(働く・歩く)がある のはどうしてでしょうか。  動詞が表す動きには、その動きがあるところで完成する・実現するものと、 そうでなくだらだらと(?)続くものがあります。例えば「犬小屋を造る」は、何 時間か作業を続けて、ある瞬間に「犬小屋」が完成し、「造る」という動きが 終わります。「作文を書く」もそうでしょう。少しずつ書いていって、ある瞬間に 「作文を書いた」と言える時が来ます。  それに対して、「働く」の場合は、確かに「5時まで働いた」とは言えるの ですが、そこで何かをなし終えた、ということはありません。(こう言うと何 か暗い感じがしますが)また次の日にその続きが同じようにあるだけです。  「時マデニ」は、このように何か「実現・達成」を意味するような「終わり」 のある動きについて使われます。(これを「限界」という用語で示すことがあ ります。)  瞬間的な動きの場合には、「来る」でも「会議を始める」でも、それが実現 することを表しますから、「時マデニ」と使えるのです。  ただし、「働く」でも次のように言うことはあります。      俺は60までに充分働いた。だから、これからはしたいことをする      んだ。 この場合は、「充分働く」ということが「60までに」実現した、という意味 ですから、ただの「働く」とは違ってくるのです。

ぁ峇間デ」

 同じような「実現・達成」の意味を必要とする時の補語として「期間デ」が ありますが、こちらは瞬間動詞の一部が使えない点が違います。      2時間で 小説を一冊読む/掃除をする/学校に着く      ×2時間で 出発する/会議を始める/会場に入る  「×2時間で出発する」がぜんぜん意味をなさないのに、「空港から2時間 で学校に着く」がいいのは、「2時間」が「着く」までの時間を表しているか らです。  ある動きの終わりの点で実現するような意味の瞬間動詞は使えますが、何か 動きの初めの部分を表すような瞬間動詞はだめなのです。  次の「会議が終わる」と「会議が始まる」の違いを見て下さい。      3時までに 会議が終わる/会議が始まる          2時間で  会議が終わる/×会議が始まる     ただし、次のようには言えます。      あと2時間で会議が始まります。  この場合は、「今から2時間」ということを表しているからです。先ほどの例 も、「あと2時間で出発する」なら言えます。  「デ」のあるなしで動詞の意味合いが変わってきます。      2時間走る      2時間で走る  「2時間で」のほうは、ある「決まった距離を」という意味合いを感じます。      10分新聞を読む      10分で新聞を読む  「デ」がないと、単にその時間だけ、という意味ですが、「デ」があるほう は、読むべき部分を読む、つまりその新聞に関しては一通り読んだのと同じこ とになります。  以上のように、動きの動詞は、瞬間的な動き(変化)を表す「瞬間動詞」と時 間的長さのある動きを表すことができる「継続動詞」の二つに大きく分けられ ますが、両方の用法を持つものもたくさんあります。  この分類はあとでも必要になる分類です。「状態動詞」を入れて3種類にな り、これが動詞の時間的性質による基本的分類です。      1 状態動詞      2 継続動詞 ─┐    ├─動きの動詞      3 瞬間動詞 ─┘        この分類は、多くの文法書では違った手順によって行われます。それについ ては、次の「V−ている」の項で述べます。

24.3 V−ている

  上に述べた「状態・継続・瞬間」という動詞の分類は、一般には、「V−て いる」という形の複合述語の用法に関連して述べられることの多いものです。  先にかんたんに述べてしまうと、まず、    1 「V−ている」の形には本来ならないものが「状態動詞」 で、「V−ている」の形で、    2 「進行中の動き」を表す動詞が「継続動詞」、    3 「動きの結果としての状態」を表す動詞が「瞬間動詞」、    4 常に使われる動詞が「特殊動詞」(例は後で出します)、 となります。この分類のしかたのほうが、手続きが単純でわかりやすいので、 ほとんどの文法書がこのやり方をとっています。  「V−ている」は、この形をとり得る動詞の範囲が広く、用法の幅も広く、 結果として使用頻度が高いので、初級日本語の中でも重要な文法項目の一つで す。  そして、前にも述べたように、動きの動詞は「現在形」が「現在」を表せな いということがありますので、この「V−ている」の形が頻繁に使われること になります。  「V−ている」の基本的な意味は、ある動詞Vの表す事がらが実現した状況 (それが「V−て」です)になり、その状況の中に「いる」ということです。  その「状況」の内容と、「いる」の具体的な内容は、その動詞が本来持って いる意味・時間的性質によります。(この「状況」ということばはあまり適当 とは言えませんが、ほかにいい表現がないので、こうしておきます)  例えば、「食べている」の場合、「食べる」という行為が「実現した状況」 というのは、「食べ始まった」ことを意味します。「食べ始まり、その状況の 中にある」ということです。「実現した」というのは、ここではそれが「完成 した、終了した」ということではありません。ただし、「死んでいる」ならば、 始まりと終了が同じ瞬間のことですので、「実現」=「終了」になります。   さて、「V−ている」全体の時間的性質は状態動詞と同じようになり、現在 を表すことができます。  したがって、状態動詞は基本的には「V−ている」の形になりません。     ×ここにいている。     ×お金が要ている。  「存在する」や関係・感覚を表す動詞のいくつかは「V−ている」の形にも なります。意味の違いはほとんどありません。 存在する:存在している  違う:違っている      含む:含んでいる 感じる:感じている  動きの動詞の「V−ている」の用法は、その表す意味によって、まず大きく 二つに分けられます。Vが継続動詞の場合は「動きの進行」を表し、瞬間動詞 の場合は「動きの結果としての状態」を表します。  この違いをはっきり理解することが、この文型の基本です。(念のために繰 り返しておきますが、「動き」というのは便宜的な表現です。「状態」ではな い、ということで、「眠る」とか「死ぬ」なども「動き」に入ります。)

24.3.1 進行中の動き(継続動詞に)

     1 彼はいま図書館で本を読んでいます。      2 前の道をおおぜいの人が歩いています。      3 夕べの地震のときは、自分のへやでテレビを見ていました。      4 2時頃には、ちょうど富士山のそばを走っているでしょう。  例1・2はなにも問題がないでしょう。ある動作が現在進行中であることを 表わします。例3はそれが過去のテンスになっています。過去のある時に進行 中の動作を表わします。例4は未来のことです。  それらの場合は、その「ある時」が、文脈かあるいはその文の中で、はっき り示されてなければいけません。テンスが現在のときは、それが「今」という、 その言葉が発せられている時間になります。  これは言うまでもないことのようですが、「読んでいる」状態のあとで「読 んだ」ことになります。次の「結果の状態」との対照のために、次のような一 見わかりきった流れを確認しておいて下さい。      (読み始める) → 読んでいる → 読んだ      (歩き始める) → 歩いている → 歩いた 覚えておいてほしいのは、「テイル → タ」という順序です。

24.3.2 動きの結果の状態(瞬間動詞に)

 上のような「進行」の用法は学習者にとって比較的わかりやすいものですが、 次の用法はちょっとわかりにくいようです。      今、お客さんが来ています。      この虫は死んでいます。      その時、田中さんは赤いかばんを持っていました。      二十年後には、この木は大きな木に育っているでしょう。  「来ている」は、「来た」結果、現在「いる」ことを表します。「来る」に 当たる英語の動詞"come"の「進行形」"coming"のように、「来る」という動作 が「進行中」、つまり来る途中であることを表すのではありません。同じよう に「死んでいる」も、もう死んでしまって、その状態であることを表し、「死 につつある」のではありません。  言い換えると、      来た→ 来ている     死んだ→ 死んでいる という順序になっています。「持っていた」の例では、その全体が過去のこと になっています。この話し手が「田中さんがかばんを持っている」のを見たの が過去のある時で、「田中さんがカバンを持った」のはそれよりも前の時点で す。      (「その時」より前に)持った→ (その時)持っていた   今の「た→ている」の順序は、上で見た継続動詞とちょうど反対になります。  この「た/ている」の順序の違いを並べてみせると、学習者にもこの二つの 用法の違いが理解しやすいようです。  ただし、「着る・はく・ネクタイをする」など身につけるものに関する動詞 は、ちょっと特別です。      今、ワイシャツを着ています。 という文は、「そでに手を通している」というような、現在その動作の途中で あるような意味と、その動作が終ってしまった後の状態との両方を表すことが できます。      今ネクタイを締めているんですが、久しぶりなのでうまく締められ      ません。      あの人はいつも紺のネクタイを締めています。  先ほどの順序で言えば、      着ている → 着た → 着ている       締めている → 締めた → 締めている のようになります。  ただ、この前の方の「〜ている」は、「V−ようとしている」という言い方 でも表せます。その動作がまだ目標達成までに至っていない、ということをは っきり示した言い方です。      今ネクタイを締めようとしているんですが、〜。  そう考えると、後の方の「V−ている」、つまり「結果の状態」の方がこれ らの動詞にとって基本的な用法だとも言えます。  瞬間動詞ではないのに「V−ている」が結果の状態を表す動詞もあります。 例えば、「太る・やせる」という動詞は、      やせた→ やせている となって、結果の状態を表しますが、瞬間動詞ではありません。長い期間(と 努力?)が必要です。(これについては、あとで「変化動詞」という考え方の 紹介のところでまた触れます。)  以上の二つの用法が「V−ている」の基本的用法です。継続動詞と瞬間動詞 の違いと、それに対応した「V−ている」の意味の違いがポイントです。

24.3.3 その他の用法

 「V−ている」には派生的な用法として「習慣・反復」「経験・記録」「単 なる状態」などがあるとされます。

[習慣・反復]

     私は毎日電車で学校に通っています。      食事の後でちゃんと歯をみがいていますか。      毎日どこかで交通事故が起きている。  主体が単数で、動きを繰り返す場合と、複数の主体の動きが次々と続く場合 があります。

[経験・記録]

     以前に何度も挑戦を試みている。      私はその映画を前に見ています。      この地方では五年前にかなり古い土器が発見されている。  この用法については、後でまた何度か触れます。報告調の文体という感じが します。

[単なる状態]

     道がくねくねと曲がっている。      この湖の水はとても澄んでいる。  この用法は、すぐ後でとりあげる「特殊動詞」につながるものです。  「習慣・反復」は「継続」の、「経験・記録・単なる状態」は「結果」の、 それぞれ派生的用法と考えられます。また、習慣とは人が毎日繰り返す行動の ことですから、広く言えば「反復」の中に入れていいでしょう。  また、「ている」の有無で意味の変わらない動詞もあります。      このカーテンの色は部屋によく合います/合っています。      海水は酸素を含む/含んでいる      AとBは異なる:異なっている これらは二者の関係を表す動詞です。「関係」は、時間とかかわらない、一種 の状態です。

24.3.4 特殊動詞   

    「V−ている」の形で「単なる状態」を表すのが基本的な使い方であるよう な動詞、言い換えれば、基本形(+ます)の形では普通使われない動詞があり ます。これらを(アスペクトに関して)「特殊動詞」と呼びます。形容詞に近 い動詞とも言えます。      山がそびえている。(×そびえる)      性能が優れている。(×優れる)      彼は丸い顔をしている。(×丸い顔をする)  「する」はふつうは継続動詞ですが、この「〜顔をしている・大きい手をし ている」などのように身体の特徴を表わす表現では「している」の形がふつう です。似たような使い方ですが、      大きな顔をするな! というのは、そのときの一時的な状態(態度?)ですから、ちょっと別です。  特殊動詞の基本形は、連体修飾の形では使われます。(→「56. 連体節」) これを、基本形と「ている」の形との対立が連体修飾の位置では「中和」され ている、といいます。      後ろにそびえる/そびえている 山々  その場合、「ある性質をもっている」という意味の場合はタ形になります。      優れた性能   とがった鉛筆   澄んだ水 「優れる才能/優れている才能」と言う人もいるかもしれませんが、あまり 使われません。なぜ過去形になるのか、学習者には分かりにくい用法です。   「読んだ本」のようなふつうの動詞の場合は、「読んだ」ということがその 前に起こったことが想定されている(この形は「過去」のことだけでなく、将 来のことにも使えます。「読んだ人は先に帰ってもいいです」のように。くわ しくは「56.連体節」で。)のですが、「澄んだ水」の場合は、いつ「澄んだ」 のかという問い自体が成り立ちません。

24.3.5 自他と「ている」

 前に「自他の対」のところで、対にある他動詞と自動詞を多く紹介しました が、その他動詞はほとんどが継続動詞で、自動詞は瞬間動詞です。したがって、 それらの「他動詞+ている」は進行中の動きを表わし、「自動詞+ている」は 結果の状態を表わすことになります。      家を壊している:家が壊れている      本を並べている:本が並んでいる     他の多くの自他の対でもこうなりますが、もちろん例外というものは常にあ ります。 電車を動かしている(動かす):電車が動いている(動く)      ボートを揺らしている(揺らす):ボートが揺れている(揺れる) などではどちらも進行中の動きです。動詞と時の表現の関係を見ても、      一分間揺らした:揺れた で、どちらも継続動詞です。  この自他の対とアスペクトの関係は、後でとりあげる「V−てある」に重要 な関係があります。

24.3.6 もう一つの分類法:変化動詞 

 さて、「時の補語」との関係で動きの動詞を分類し、「V−ている」の用法 との関係を見てきましたが、最近はこの「瞬間動詞」という用語はだんだん使 われなくなってきています。  その理由は、「瞬間」という定義に合わない動詞が「結果の状態」になるこ とと、それらの動詞に共通する特徴を「変化」という用語でとらえたほうがい いだろうということです。  例えば、前にあげた「ふとる・やせる」は「瞬間」ではないのに、「太って いる」は進行中の動きではなく、結果の状態です。また、      この湖の水には大量の塩が溶けている。 台風の影響で潮位が高まっている。 などでも、そうなるにはある程度の時間がかかっているのですが、この文は結 果の状態と解釈されます。  また、「デパートへ買物に行く」の「行く」が、家からデパートまでの動き を指すのか、家を出ることを指すのか、デパートに着くことを指すのかは文脈 によるでしょう。      8時にデパートへ買い物に行った。      9時にデパートに行き、10時に映画館に行った。      デパートに行くのに1時間かかる。 しかし、「行っている」は結果の状態にしかなりません。これも、動きが瞬 間的なことかどうかで決まるとは言えません。 そこで、「太る・高まる・行く」などに共通する特徴をあらためて考えると、 これらの動詞は、形や位置の変化を表していて、その動きの前と後では、主体 に何らかの状態の変化があると言えます。  これまで「瞬間動詞」の例として出した動詞も、みな変化を表すと言えます。      始まる・変わる・死ぬ・出発する・帰る・着く・割れる そこで、「瞬間動詞」改め「変化動詞」としてこれらの動詞を定義しようとい うわけです。  「継続動詞」のほうも、時間の長さを意味する「継続」ではなしに、「変化」 と対立させて、例えば「動作動詞」(人間の動作だけでなく自然現象も含めて) と呼ぶことになります。  しかし、そうしてみてもまた例外はついて回ります。瞬間的な動作を表す動 詞の中で、「V−ている」が「結果の状態」を表すものがあるからです。 彼女はその瞬間を目撃している。 「目撃する」は変化とは言えませんが、この「目撃している」は動作の進行を 表すのではなく、結果の状態(に近い意味)です。 また、自他の対となる動詞で、      紙を燃やしている(燃やす):紙が燃えている(燃える) のどちらも動きが進行中ですが、「燃やしている」が動作なのに対して、「燃 えている」は変化が進行中であることを表します。「変化の結果の状態」では ありません。(「火が燃える」なら「動作」と言えるかもしれませんが、「紙 が燃える」はどう考えても「変化」です。)  というわけで、どちらの説によっても例外があり、決定的な説とは言えませ ん。ちょっとめんどうですが、「継続動詞・瞬間動詞」という用語と、「変化 動詞・動作動詞」という用語の両方を知っておいたほうがいいでしょう。その 違いは部分的なものですから、そんなにこだわる必要もないかもしれませんが。

[対象変化動詞]

 「行く」や「太る」は、主体が変化する動詞です。それに対して、対象が変 化する動詞を考えてみましょう。例えば、      彼は部屋の壁に自分の絵を掛けている。 という文は、「かける」という動作をしているところとも解釈できますが、い つもそういう状態にある、という意味、つまり「かけた」結果の状態を表して いる文だとも言えます。それは「絵が壁にかかっている」という主体変化と対 応する表現です。  同じような「対象変化動詞」でも「結果の状態」にとられやすいものがあり ます。      学生たちはみな教科書の8ページを開いている。  「8ページを開く」はほとんど瞬間的な動作で、「いま、開きつつある」わ けではありません。「開いた」結果、「8ページが開かれた状態」になってい ることをこの文は表しています。これは、「本を開く」という動作が、その結 果の状態に注目するような性質を持った動作だ、という風に説明するしかない でしょう。      彼はいつも研究室のドアを少し開けている。 という例も同じです。もちろん「開けてある」と言ってもいいのですが。「V −てある」はすぐ後でとりあげます。      あの喫茶店はテーブルをいくつか前の歩道に出している。      この会社は省エネのため、廊下の電気を半分消している。   妻は、買い物に出るとき、空き巣よけにテレビをつけている。

24.3.7 「V−ている」が言えない動作

 「継続動詞・瞬間動詞」という分類法にせよ、「動作動詞・変化動詞」とい う分類法にせよ、それらの動詞が「V−ている」の形で「動作の進行」か「結 果の継続」か(あるいはその両方とも)を表せるという前提があることでは同 じですが、実際の例を考えてみると、意外に「V−ている」にならない、ある いはなりにくい(その形では意味がとりにくい)ものが多くあります。  例えば、     ?(今)妻が夫を殺しています。 という文を考えてみます。妻が夫の不倫に憤って包丁を・・・というようなテレビ ドラマ風の文脈はすぐに頭に浮かびますが、「死ぬ」は瞬間的な変化で、それ を引き起こす動作が「殺す」ですから、「殺す」は継続動詞ではありえません。 動作として考えると、「殺す前」か「殺した後」のどちらかで、「殺している 瞬間」というのは考えられません。  また、主体の側から見れば「動作」ですが、対象の変化を引き起こすという 点で、「対象変化動詞」ということもできます。しかし、「結果の状態」と解 釈することもできません。      夫が床に倒れています。 なら、「倒れる」という「瞬間(変化)動詞」の結果としてごく自然な解釈が できます。これは、「倒れる」が自動詞で、「主体変化動詞」ですから、主体 の変化の結果となるのは当然のことです。「殺す」の場合は、やはり主体のほ うが意味解釈の中心的な役割となって、対象の変化よりも主体の動作としての 面が中心になるからでしょう。  同じ「殺す」でも、      奥さんは庭で花についた油虫を殺しています。 ということはできます。これは、「油虫」が複数と考えられるからで、一つ一 つの動作「殺す」は瞬間的なものでも、それが繰り返されることを「V−てい る」の形が表すのです。  元の「V−ている」が言いにくい動作の話に戻りましょう。      野菜を切っていて、うっかり手を切ってしまった。 というような場合、例えばテレビの料理番組を録画して見直しているとしても、     ?今、うっかり手を切っている(ところだ)。 とは言えません。瞬間的な動作ですから。      野菜を切っている。 が言えるのは、一回の動作は瞬間的でも、何回も繰り返している全体を「切っ ている」と表現するからです。「割る」なども同じで、一枚しかなければ、     ?大切な皿を割っている。 とは言えません。逆に、      皿を割っている。 という文があれば、その皿は複数でなければなりませんし、日本人はそれがす ぐわかります。(「(一枚の皿を)細かく割っている」なら動作が複数です。) 日本語では名詞が単数か複数かは示されませんから、「皿を割っている」の 「皿」が、「V−ている」の意味から考えて複数と見なされる、などというの は日本語学習者にはかなり難しい話です。 文法書で、      窓を開けている。 は「動作の継続」で、      窓が開いている。 は「結果の状態」だ、というようなことが書いてあることがありますが、これ もよく考えると、ちょっと怪しいところがあります。一枚の窓なら、「今、窓 を開けている」とは(進行の意味では)ふつう言わないでしょう。  「口を開けている・口が開いている」ならもっとはっきりします。 「口を開けている」は進行の意味にはなりません。

24.3.8 反復動作について

 上で触れたように、「V−ている」という形式には、「読んでいる・働いて いる」のように、まさに「動作の継続」と言える場合以外に、何回も同じ動作 が繰り返されることを「継続」として見なす場合があります。 花についた虫を殺している。      爪を切っている。 ドアを叩いている。  「太鼓を叩く」というと、「1時間〜」とも言えるので、何回も叩くこと全 体が「叩く」で表されていることになりますが、      ドアをドンと激しく叩いた。      ドアをドンドン激しく叩いていた。 の場合は対立があります。太鼓は「叩き続ける」ことがごく当然のことだとい う常識から来る違いがあるのでしょう。(?ドアを1時間たたく)  この反復の「V−ている」をさらに広げて考えるのが、いわゆる「習慣」の 用法でしょう。      (今)学校に行っている。 は「行った」結果、「学校にいる」という意味になりますが、      毎日学校に行っている。 となると、繰り返しの意味になり、「通っている」ということになります。      あなたはちゃんと新聞を読んでいますか。 も、ある時間継続して読み続けるという「読んでいる」ではなくて、「読む」 ということが毎日繰り返し起こる、という意味になります。      きちんと歯をみがいていますか?

24.4 する・した 

 以上、「V−ている」について述べてきましたが、ここであらためて、動詞 の基本形・タ形(−マス・マシタの形も含めます)がアスペクトとしては何を 表すかということの復習をしておきましょう。

[状態動詞]

 まず、状態動詞の現在形は、前にも書いたようにそのままの形で現在のこと を表わせます。      今、地球に50億の人がいる。      彼女は数学がとてもよくできます。  過去形は、過去のあるときの状態を表します。      二十世紀の中頃、地球には25億の人がいた。      彼女は学生時代、数学がとてもよくできました。  状態動詞の場合は、初めと終わりは意識されません。「50億人いる」の例 の場合も、ある時50億になり、またある時そうでなくなるわけですから、そ の状態の初めと終わりがないわけではありませんが、それは意識されません。  そうすると、これはアスペクトとは言えません。つまり、状態動詞にはアス ペクトという考え方は適用されません。ただし、動詞の時間的性質という点で は、後に述べる「〜ている」と似たものになります。  それから、次のようなものも「現在の状態」を表しますが、これは状態動詞 ではなく、動きの動詞の「状態動詞的用法」でしょう。これらは「動き」では なく、可能性または性質を表す表現です。      このびんは1リットル入ります。      この箱は水に浮きます。    現実に目の前で、ということなら、      この箱は水に浮いています。 のように「〜ている」の形を使います。

[継続動詞]

 次に、動きの動詞の継続動詞の場合。たとえば、      ポチがごはんを食べます。  のような文は「4.動詞文」の初めに述べたように、これだけでは(特に文脈が なければ)意味が宙に浮いているような感じがしますが、それは動詞のテンス が前に述べたようにはっきりしないことによります。この文の表していること が今のことなのか、未来のことなのかはっきりしないと、具体的な事がらとし てイメージできません。「食事」という現象、頭の中にある概念を表している だけです。  過去形にして、      ポチがごはんを食べました。 とすると事実の描写として安定するということも前に述べました。  現在形のままでも、日常繰り返される、例えば、「ごはんを食べる」に時を 表す表現を加えて、      あとでごはんを食べます。      さっきごはんを食べました。      いつも朝8時にごはんを食べます。 とでもすると、日常使われる文として、落ち着きます。  さて、ではこの三つの文に共通する「食べます(ました)」というのは、「食 べています」などその他のアスペクトの表現との対立という面から見ると、い ったい何を意味しているのでしょうか。  一つ言えることは、「食べる」という行為の初めから終わりまでを一つのも のとしてとらえている、ということでしょう。これは、何かあたり前のような 気もしますが、「V−ている」やその他のアスペクト表現と比べると、その違 いがはっきりしてきます。  例えば、      今、ごはんを食べています。 の場合は、初めも終わりもはっきりしません。もちろん、ある時に食べ始め、 ある時に終わる(中断しなければ)ということは現実には当然のことですが、 上の文はそのことに触れていません。今現在、「食べる」という動作があるこ とを言っているだけです。そのほか、「食べ始める」や「食べ終わる」が「食 べる」ことの全体を表していないことは、言うまでもありません。  これは、状態動詞も同じです。      今、食堂にいます。 という場合も、いつから「いる」ということがはじまり、いつ終わるのかはわ かりません。  逆に言えば、      食堂でごはんを食べます。 という文は、「食べる」ことの始めから終わりまでを表していますから、ある 瞬間、例えば「今」という瞬間に起こっていることを表せないのです。その瞬 間の中に「食べる」という動作を位置づけることができないのです。     ×今(現在)ごはんを食べます。 (ただし、「8時に食べる」の場合は、実際には「8時から」の意味であった り、前後のある程度の時間の幅を意味していたりするので、使えます。) それに対して、      あとでごはんを食べます。 では、その行為の一続きの中のどの部分にも特に注目していません。後でそう いう事がらが起こるということ、それが始まり、ある時間続き、終わるという ことを言っていますが、それを一つの動作としてまとめてとらえています。      さっき食べました。 でも、動作の全体を表しています。過去形にすると、始まりはぼんやりしてい ますが、その終り、終わったことがはっきり示されています。これはテンスの せいです。過去のこととしてとらえるとらえるということは、その終わりがあ ったことをはっきり示します。  継続動詞は長い期間に渡ることも表せます。例えば、      彼女はこの問題を30年間研究した。 というと、「研究する」という行為が始まり、そして終るまでずいぶんあるわ けですが、それでも全体として一つのことがらとして表現されています。      彼女はこの問題を30年間研究している。 という文と比べると、アスペクトという観点からは、はっきり違ったものにな ります。「研究している」のほうは、現在という「点」を含んだ「幅」、ある いは点の背景としての「幅」を表しています。それに対して「研究した」は、 「30年間」全体を、いわば「まとまり」としてとらえ、表現しています。

[瞬間動詞]

 瞬間動詞では、初めと終わりがくっついています。いちばん極端なのは「死 ぬ」の場合です。始まりも終わりもなく、ある瞬間のできごとです。いつ「死 んだ」のかは、今の医学では難しい問題になっていますが、言語表現の世界で は、人は、死ぬ前か、死んだ後かのどちらかです。  よく冗談めかして、「結婚する」というのはどの瞬間を言うのだろう、と言 うことがあります。考えてみてもよくわからないことですが、言葉の上では、 人は結婚する前か、した後か、どちらかです。「ちょうど、今、結婚している 瞬間」というのはありません。  「いすに座る」場合、物理的には時間がかかっていますが、始まったとたん に終わるものとして表現されます。「いすに座った」というと、ふつうは腰を 下ろしたことだけを意味します。その後は「座っている」になります。「5秒 間だけ座る」という使い方もありますが。

[変化動詞]

アスペクトに関する動詞の四分類と言うと、上の「状態・継続・瞬間」と前 に述べた「特殊動詞」の四つでいいわけですが、すでに述べたように、「瞬間 動詞」ではないけれど、「V−ている」が「結果の状態」になるものがあるの で、「変化動詞」としてそのいくつかの「スル・シタ」の意味について考えて みます。  例えば、前に例に出した「太る」は、瞬間動詞ではありえませんが、「太っ ている」は結果の状態を表します。「やせる・(背が)伸びる」なども同じです。  時間がかかる変化の中にもまた違った種類の動詞があることを見てみましょ う。例えば、「日に焼ける」にはかなりの時間がかかりますが、「よく焼けて いるね」というのは「結果の状態」を表します。  この場合は、たとえほんの少しでも「焼けた」ことになり、長い期間のどこ でやめても「焼ける」ということが成り立ったことになりますが、「肉が焼け る」となるとまた違います。途中では「まだ焼けていない」となり、ある瞬間 に、「焼けた」と判断されます。  この場合は、「焼ける」のに一定の時間がかかり、最後の瞬間に「焼ける」 という変化が完成し、食べられる状態「焼けている」になるわけです。「料理 ができている」なども同様です。

[完了のタ]  

 テンスの過去形のところで、「完了」という用法のことに触れました。出発 点は次の例です。    1「レポートはもう出しましたか」「はい、(もう)出しました」    2「レポートはもう出しましたか」「いいえ、まだ出していません」 3「きのうレポートを出しましたか」「いいえ、出しませんでした」  例3では質問の「〜た」と答えの「〜た」が対応しています。どちらも「き のう」、つまり過去のことを表現しています。「もう」を使った例1も一見そ う見えるのですが、例2のように答えが否定になると、「〜た」は出てきませ ん。「現在」を表すはずの「V−ています」の否定の形になっています。  もちろん、現在を表す「V−ている」の否定は「V−ていない」です。      今、本を読んでいます。      今、本を読んでいません。  しかし、上の例2では「現在」の否定の形が「出しましたか」の答えとして 対応しています。これはどう考えたらいいのでしょうか。  過去・現在・未来を表すテンスは、ある事柄・動きが今現在、話したり書い たりしている瞬間とどういう時間関係にあるかを表しています。過ぎ去ったこ となのか、現在のことか、未だ起こらない、これからのことなのか、です。上 の例3は、その一つの例です。  けれども、例1・2は少し違います。「もう出しました」と言う時、「出し た」のは過去のことですが、それが単なる過ぎ去ったこと、現在と関係ないこ とではなく、その行為の影響が現在にまで及んでいることを表しています。  「もう出した」から、安心だ、とか、遊びに行けるとか、そのような意味合 いを込めた表現です。それが実現されていない時、つまりは現在のことにかか わるので、      まだ出していません。 となるわけです。  このような「た」は、日常の生活の中で非常に多く使われます。      「通知は来ましたか」「(まだ)来ていません」      「やった?」「まだやってないよー」  これらの「た」を「過去」としてしまうと、否定の答えに出てくる現在形と の関係が説明しにくくなってしまいます。  ただし、「V−ている」のようにはっきり現在の状態を表すのとは違います。      バスは来ましたか。      はい、もう来ました。      はい、もう来ています。 「来た」の場合は、「来た」だけであって、そういうことが起こったというこ とだけです。「来ている」の場合は、「来る」ということが実現し、そのあと、 その状況の中にある、つまり、たぶんその状況が変化していないということを 意味します。  かんたんに言えば、「来ている」では、たぶん「バス」がそこに「いる」の に対し、「来た」ではまた行ってしまったかもしれない、という含みがありま す。むろん、文脈によって違うので必ずそうだとは言えませんが。 また、「もう・すでに」などが共に使われることからもわかるように、その 事柄の実現の可能性が予想されていた場合に使われます。単にあることが起こ り、その何らかの影響が現在にあるというだけではありません。     a「ご飯は?」「うん、できたよ。食べなさい」     b「そろそろ帰ろうかな」「晩御飯、作ったよ。食べて行きなさい」  ご飯が現在食べられる状態にあるという点ではa、bどちらも同じですが、 aのほうは「まだできていない」という否定に対応します。bは、単なる過去 です。この辺の違いは微妙ですが、「現在までに起こるべきことが起こったか」 が重要なのです。来るはずのバスが来たかどうか、書くべきレポートを書いた かどうか、等々。      昨日よく勉強した。だから試験は大丈夫だろう。      (昨日あまり勉強しなかった。だから・・・)      試験範囲はもう全部復習した。だから試験は大丈夫だろう。      (試験範囲をまだ全部は復習していない。だから・・・) 「勉強すべき」であることは共通していますが、「昨日」のことではなく、 「現在までに」したかどうかが問題になります。それが、否定で現在形が使わ れること、現在とのつながりということの意味です。 なお、「わかる」「できる」などでは、「V−ない」で答えられます。 「もうわかった/できた?」「まだわからない/できない よ」

[完了のタとテイル]

 上で述べたように、完了の「た」を使った質問に否定で答えようとすると、 「ていない」が出てきます。      「この新聞、読みましたか」「いえ、まだ読んでいません」  この「た」が単なる過去でないことはいいとして、では、「ている」の方は どうでしょうか。      バスは(もう)来ました/来ています の「V−ている」は、前の説明では「結果の状態」ということでしたが、完了 の「た」と交代可能であるなら、「完了」と言ってもよさそうです。この二つ の表現はどう違うのでしょうか。  「ている」が動きの結果の状態を表すと言っても、場合によってどこに重点 を置くかという違いがあります。  例えば、ただたんに庭に出て、      1 おや、花が枯れている。 という時と、花が咲いたのを知っていて、まだ大丈夫かな、と庭に出て、      2 おや、(もう)枯れている。 という時では、気持ちの違いがあります。1では単なる現在の状態の表現です が、2では「枯れる」という動きがすでに(話し手の予想よりも意外に早く) 起こったこと、その結果として現在の状態があることを表しています。2がこ こでいう「完了」になります。 この違いは、時の補語が示す時間が何を表すかということでも明らかになり ます。      3「誰がいるかなあ。おや、彼が来ているよ」 4「彼は来ましたか」「ええ、2時間前から待っていますよ」      5「彼は来ましたか」「ええ、2時間前に中に入っています」  3の例は1と同じで、今現在の状態を表します。4の「2時間前」は「待っ ている」という動作の始まりの時間を表します。その後、ずっとその動作が継 続しているわけです。      (2時間前から)待っている →(2時間)待った それに対して、5の例の「2時間前」は「中に入った」時間を示します。      (2時間前に)中に入った →(2時間)入っている となります。また、      6 いつも3時に来ています。      7 いつも2時か2時半に来ることが多いですから、3時には必ず        来ています。 6では「来る」のが「3時」ですが、7では「来ている」のが3時です。  「V−ている」の完了の用法は、変化動詞に典型的なもので、継続動詞では 自然な解釈にはなりにくくなります。      レポート、もう書いた?      うん、もう書いたよ。     ?うん、もう書いているよ。   これは、継続動詞では「動作の継続」の解釈が優先されるためでしょう。      もう食べたよ。      もう食べているよ。  この「ている」の場合は、「食べ始めている」の意味にとるのがふつうでし ょう。  もう一つ、「V−ている」の完了に近い用法があります。前に「その他」と して紹介した「経験・記録」という用法です。      三年前に一人の日本人がこの地を訪れている。      この山は昔大爆発を起こしている。  この用法の特徴は、「昔・三年前に」などの過去を表すときの補語が現れる ことです。これらの補語と「ている」をいっしょに使うことで、過去のある時 点でその事柄が起こったことと、それが現在まで、いわば「尾を引いて」いる ことが同時に表せるのです。  これらの補語を「V−た」とともに使ってしまうと、単なる過去の事柄の表 現になってしまいます。      三年前に一人の日本人がこの地を訪れた。  完了との違いは、一般の動作動詞でもこの用法なら使えることです。         「もう読んだ?」「うん、読んだ/×読んでいる よ」  「読んでいる」は、現在進行中の意味になります。「読み始める」ということ は「もう実現した」ということで、「もう読んだ」とは違った意味になります。      記録によると、彼はこの本を三年前に読んでいます。 この道は前のオリンピックの時に一度走っている。 「経験がある」というのに近く、「完了」の「起こりそうな/起こるべき」こ とが起こった、というのとは違います。このため、現在を基準とした「完了」 の用法は、「た」がよく使われることになります。  また、「V−ている」は、過去・未来にあることが起こった時間を基準とし、 それよりも前に起こったことの影響が、その時間に残っていることも表せます。 いわば「過去の完了」「未来の完了」です。これについては、もう一つの述語 が関係するので、複文及び連文の問題として扱うことにします。      私の車はやっと駅に着いた。彼らは1時間前に着いていた。  未来の例。      彼らのほうが近いですから、私達が着く1時間前には現地に着いて      いるでしょう。  それぞれ、「V−ている(た)」はその時点の状態を表すだけでなく、その前 のある時と結びついています。なお、この用法は「た」にはありません。

24.5 V−てある        

  「てある」は「ている」に比べてずっと使用範囲・頻度は少ないのですが、 体系性を考えると「ている」との対立という点で重要な意味を持っています。 まず、例文を見て下さい。    A 机の上に箱が置いてあります。      あちこちに花が飾ってありました。      黒板に字が書いてあります。      ガラスはきれいに磨いてありました。      削ってある  造ってある  彫ってある  描いてある     B 壁に絵がかけてあります。      前の方にいすが並べてありました。      教室の窓は開けてありました。      黒板の字は消してあります。  「てある」は基本的に意志的行為の他動詞に接続します。「てある」は、人 があるものに対して何かをしたあと、その人またはそのものがその状態に「あ る」ことを意味します。ある時に「箱を置き」、その後は箱がその状態で「あ る」のです。「飾ってある」「かけてある」など、みな同様です。ある動きの 結果の状態を表すという点で、「V−ている」の用法の一つと同じです。      その問題は詳しく調べてあります。      機械の性能は何度か試してあります。 などの場合は「ある」の意味がより抽象的になっています。そのような行為が すでに行われた、という意味です。  「V−てある」の動詞はふつう他動詞で、本来「Nを」をとる動詞です。そ のNが「Nが/は」として現れています。      箱を置く → 箱が置いてある      性能を試す → 性能が試してある  上のAとBのグループ分けは、Bの方には対応する自動詞があることにより ます。「かける:かかる」「並べる:並ぶ」などです。そして、その自動詞に 「ている」をつけた形でも、ほぼ同じような意味を表すことになります。      壁に絵がかかっています。      前の方にいすが並んでいました。      教室の窓は開いていました。      黒板の字は消えています。  「自動詞+ている」は、その状態を見て、誰がそうしたかということを考え ず、その物自体の状態として表現しているのに対して、「他動詞+てある」の 方は、ものの状態を言っているのではあるけれど、それは誰かがそうしたこと の結果であるという含みを持たせています。  Aグループの例では、対応する自動詞がないので、このような似た表現はで きません。  別の言い方をすれば、Bグループの動詞では、「てある」を使わなくても、 「自動詞+ている」でほぼ同じ意味を表すことができますが、Aグループでは そうできません。つまり、「てある」を習うことの意義は、Aグループの表現 にあります。  教師も学習者も、「自動詞+ている」と「他動詞+てある」の微妙な違いを 面白がることが多いのですが、それだけでは「てある」を習う必然性は薄くな ります。  「V−てある」が具体的な動作の結果を表す場合は、受身(→「25.2 受身」) の形で表すこともできます。      机の上に箱が置かれています。      あちこちに花が飾られていました。      黒板に字が書かれています。 ガラスはきれいに磨かれていました。  こうすると、誰かがそうした結果であることが暗示されます。Bグループの 場合も受身で表せます。      壁に絵が掛けられています。      前のほうにいすが並べられていました。  同じ一つの状態が三つの言い方で表しうることになります。      いすが並んでいます      いすが並べてあります      いすが並べられています  先ほどAグループの例としてあげた「行為が行われた結果」を表す例は、受 身では言いにくくなります。      その問題はくわしく調べられています。      機械の性能は何度か試されています。

[NをV−てある]

 次は「対象+ヲ」の形のものです。    C 彼にはそのことを伝えて/言って/連絡して あります。      前の晩にテキストを何回も読んであったので、大丈夫だった。      いつでも冷蔵庫にビールを冷やしてあります。      その点を明らかにするために、証人を呼んであります。  対象の「Nを」があると、「準備」の意味合いが強く出ます。「〜のために、 前もって」何かをします。後でとりあげる「V−ておく」に近くなります。  上のA、Bの例は、何かをした後の結果の状態を主に表すものでしたが、こ のCは動作者の意図がはっきりと表に出ています。     以前は、この形はあまり認められず、「NがV−てある」の形が正しいもの とされることがありましたが、実際の例を見ると、「Nを」も多くあります。 これまでの例でも、「Nを」の形で言うことができます。 各部屋ごとに大きな箱を置いてありますから使ってください。      危なくないように、角を削ってあります。      表面を保護するために、カバーを掛けてあります。      換気のため、窓を全部開けてあります。 何らかの目的のため、あるいは準備として、という意味合いが強く出ます。

[〜とV−てある]

 次のような例では「〜とV−てある」という形になりますが、「Nが」を補 うことができます。      塀に大きくバカと書いてあった。 (落書きが)

[自動詞+テアル]

 自動詞の例もあります。      D 夕べよく寝てあるから、徹夜しても平気だ。      このコースは何度も走ってあるから、細かいところまで知っている。  「準備」の意味合いが強く出ています。なお、「Nを走る」は場所の「Nを」 と考えるので自動詞です。  「V−テアル」の動詞は多くの場合意志的な動作ですが、非意志的な例もご くまれにあります。      電話の横に、財布が置き忘れてあった。 しかし、やはり多少不自然な感じがします。ほかにいい言い換えがないのは 確かですが。

[否定の形]

「してありますか」という疑問に対する否定は、「して(は)ありません」で、 特に問題はありませんが、普通体の「してない」が、「している」の否定形 「していない」の省略した形「してない」と同形になってしまうのがちょっと 困ります。      「このフィルムはありますか」「申し訳ございません。当店では置      いてありません」「そうですか。置いてないんですか」 「この映画、見た?」「ううん、まだ見て(い)ない」  「やってない」は「やっていない」の省略形なのか、「やってある」の正し い否定形なのか、決められません。どちらでも意味は同じようなものですが、 丁寧さの違いがあり、聞き手にとってそれが気になる場合があります。少し丁 寧さを表したい場合は、「やっていない」と言ったほうがいいでしょう。  もっと丁寧にしたければ、「やっておりません」などの敬語表現があります。  「V−ないである」という形もあります。意味が少し違います。      そのことは彼には言ってありません。      そのことは彼には言わないであります。  それほど使わない言い方でしょうが、「わざと言わない」という状態が続い ているということです。「言ってない」のほうは、伝え忘れたのか、何となく 避けたのか、はっきりしません。次で扱う「V−ておく」と重ねて使って、      そのことは彼には言わないでおいてあります。 とも言えるところです。

[テイルとテアル]

 先ほどは、自他の対について「V−ている」と「V−てある」の違いを述べ ましたが、同じ他動詞についてもこの両方が使える場合があります。上の否定 の「見て(い)ない」の例もそうです。  「NがV−てある」の場合は「他動詞+ている」の形にはなりませんから、 「NをV−てある」の場合です。もちろん、主題化されて「Nは」になるか、 省略されてしまえば、「が」か「を」かは問題になりません。「V−ている」 のほうは、進行中ではなく、習慣的な動作で、その結果ある状態ももたらすよ うな動作の場合です。      彼はいつも窓を開けている。 彼はいつも窓を開けてある。      すぐとれるように机の横に辞書を置いている/置いてある。  「V−ている」のほうは動作に中心があり、習慣的で、「V−てある」のほ うは結果の状態に中心があり、目的意識が強く出ています。  「V−ている」のほうは、進行中の意味にとれないことが文脈からはっきり わかっていなければなりません。「窓を開けている」だけでは、いま動作中な のか、結果の状態なのかあいまいになってしまいます。        

24.6 V−ておく  

 
    「V−ておく」はアスペクトとは言いにくいものですが、「V−てある」と 近いところがあるので、ここで扱うことにします。   人があるものに対して何かをしたあと、それをその状態に「おく」ことを表 わします。「おいた」ものはそのままそこにあり、また、後で使うこともあり ます。「V−ておく」も、その状態を変えないことと、それを後で使う、とい う二つの面があります。  何かのための「準備」の例。      パーティーのために、部屋を掃除しておきました。そして、料理を      作っておきました。ビールも買っておきました。  部屋が掃除「してある」状態になり、料理が「作ってある」状態になります。  「V−てある」のところでふれたように、「準備」というという意味で共通 するところがあります。      必要なものを 出しておく/出してある 「テアル」ような状態にすることが「テオク」です。  「V−ておく」は意志的な行為なので、意志や依頼・命令の形にできます。      これをやって おこう/おきましょう/おいてください/おけ  「V−てある」のほうは、あくまでもそのことがなされた状態の視点から見 ています。  自分では何もせず、ある状態を変えないで、そのままの状態にする場合も使 います。「放置」した状態です。      「この窓、閉めておきますか?」「そうですねえ。そのまま開けて      おいてください」      外出するときも、ラジオをつけておきます。  「V−しないでおく」という言い方もできます。      それは片づけないでおいてください。あとでまた使いますから。      彼女には話さないでおいてください。びっくりさせたいから。      毎日飲み過ぎだ。今日は飲まないでおこう。 「V−ておく」自体の否定は「V−ておかない」です。      窓を開けっぱなしにしておかないこと。  「V−しない」という意味の「やめる」もよく使われます。         「一杯どうですか」「いや、やめておきましょう」  「状態」ということばからは少しはずれるかもしれませんが、次のような、 あることのための「準備」として何かすることも「−ておく」で表されます。      試験の前に、もう一度教科書を読んでおきます。      このビデオ、見ておいてください。後で感想をお願いします。 しいて言えば、「読んだ状態」にして、次の行動に備えるわけです。  自動詞でも、何かの準備としての動作なら「−ておく」になります。      明日は忙しいから、はやめに寝ておきます。       マラソンのコースを二、三度走っておく。    対象に変化を与える動詞で、その後の状態を維持することを示す場合、「時 まで」と「時までに」で違いが出ます。      2時までに  出しておく/飾っておく/開けておく            2時まで     〃     〃     〃      「までに」のほうは、ある動作をすること、そしてその後そのままにするこ とを意味します。上の例で言えば、「2時」の前のある時、例えば1時半に 「出し」、その状態にします。2時をすぎても出ています。終わりはわかりま せん。  「まで」のほうは、状態を変えないというだけです。「出す」ほうの時間は わかりません。例えば朝の9時に「出し」、その状態が続き、「2時」に終わ ります。  また、「V−ておいてある」という言い方もあります。「V−ておく」の 「準備」の意味と、「V−てある」の状態の持続の意味が重なって、準備は万 全である、という意味合いになるのでしょう。あまり多く見る形ではありませ んが。否定のところであげた例も同じです。      彼にはくわしく説明しておいてあります。反対はしないでしょう。      まだ皆には見せないでおいてあります。あなたが見せて下さい。

24.7 V−てしまう   

     動詞の後に「しまう」という動詞が補助動詞化して接続します。ふつうに使 われる「しまう」の意味、「どこかにものを片づける」というような意味はあ りません。「しまう」の今ではあまり使われなくなったもう一つの意味、「終 える」のほうから、後に述べるような使い方になったものです。  特に東京語では、「V−てしまう・しまった」が「V−ちゃう・ちゃった」 に短縮された形で非常によく使われます。  「V−てしまう」は大きく二つの意味があります。一つは、あることが完了 する・終わる、ことを表します。動詞は主体の意志的な動作を表わすことが多 く、命令や意志の表現の中でも使われます。                   1 本を全部読んでしまいました。                      早く食べてしまいなさい。                        ゆうべの風で木の葉が全部落ちてしまった。            もう一つは、それが終わるのは「取り返しがつかない・残念である」という 意味を表します。無意志的動作が多いです。                   2 つい、妹のお菓子を食べてしまいました。            コップを落としてしまいました。                   金魚が死んでしまいました。                   ただ、以上の二つの意味が重なっている場合も多くあります。      疲れちゃった。              あのお菓子はもうなくなってしまいましたよ。  基本的には「完了」の意味なのでしょうが、それに「残念」の意味がかぶさ っています。  特に自他の対との組み合わせで、次のような微妙な違いが出てきます。        コップを割ってしまいました。                      コップが割れてしまいました。                  単に「コップを割った」「コップが割れた」というだけなら、事実の描写に 過ぎませんが、「−てしまう」をつけると「残念だ」という、その事実に対す る話し手の態度が加わります。他動詞の場合は、自分のしたことに責任を感じ ているという意味合いになります。自動詞のほうは、そのことを残念に思って いるというだけです。  上に「−ちゃう」の形でよく使われると書きましたが、頻度が高くなると意 味も軽くなり、「自分が意図しない結果になる」というだけの意味合いで使わ れるようです。      冗談で受けたら受かっちゃってね、書類まで送って来ちゃったから、      入ることにしちゃったんだけどね、まったくまいっちゃうよ。

[否定の形]

 否定の形「V−てしまわない」はあまり使われませんが、「完了」のほうの 否定として、完了するはずだったけれど、という意味合いで使われます。       書類を全部捨ててしまわなかったのは失敗だった。 あの時、辞めてしまわなかったから、現在の君があるんだよ。  動詞の否定形を受ける場合「V−ないでしまう」もたまにあります。 言おうと思いながら、ついに言わないでしまった。

24.8 V−ていく・てくる    

     「行く・来る」は空間的移動を表わす動詞ですが、それが「V−て」に続く 補助動詞となると、空間的移動だけでなく時間の軸にそった移動(変化)も表 わすようになります。  

[もとの意味が生きている場合]   

     二つの動詞に分けて考えても意味は変わりません。逆に言えば、「行く・来 る」とは独立して行なえる動作の動詞です。                    調べていく、見ていく、買ってくる、取ってくる          「調べて」から「行く」、「買って」から「来る」わけです。「来る」ほう の例では、ふつうは今いるところからまず「行って」「買ってくる」ことにな ります。日本語学習者にはこの点がちょっと混乱の種になるようです。      デパートでランドセルを買ってきました。      倉庫から部品を取ってきてください。  「行って買う」のならわかりやすいのだが、ということのようです。

[並行する場合]   

    「行く・来る」のと同時にあることを行ないます。動作主自体の状態が一部 変わるような動作を表わす動詞が来ます。                      持っていく、持ってくる、抱いていく、かぶっていく   「来る」途中ずっと「持つ」ということが並行しています。「抱く」「かぶ る」も同様です。ただし、「ネクタイを締めていく」などという場合、「ネク タイを締めてから行く」のか「ネクタイを締めた状態で、行く」のかは結局同 じことと考えられます。  この用法が「行く・来る」以外の動詞に使われると、後ろの動詞が補助動詞 ではなくなり、複文の「様子」(→52.1)という用法として扱われることになり ます。        辞書を持って歩く   帽子をかぶって働く

[行き方・来方を表わす場合]   

     乗っていく、歩いてくる、泳いでくる、飛んでいく    どのように「行く」のか、「来る」のかを表わします。そのような動きを表 わす動詞です。「飛んでいく」の場合は、「非常に急いでいく」という意味に なることもあります。    この用法で一つ興味深い点は、「V−ている」に似て、現在の進行中の動作 を表す場合があることです。      渡り鳥が南へ飛んでいきます。      おや、向こうから田中さんが走ってきますよ。どうしたんでしょう。  現在「走っている」わけで、「てくる」はその方向を表しています。これは 本動詞としての「来る」にも見られることです。      おや、向こうから田中さんが来ますよ。ちょっと隠れましょう。

[その動作の方向を示す場合] 

       投げてくる、押していく、昇っていく、落ちてくる         「行く・来る」は、動作の行なわれる方向を示します。「行く」は話し手、 または話し手の「視点」が置かれている名詞から遠ざかる方向、「来る」は話 し手(または視点が置かれている名詞)の方への動きを表わします。  「投げくる」は近づくほうへの、「押していく」は遠ざかるほうへの動きを 表わしています。上下方向の動きの場合、どちらを使うかで話し手の位置がわ かります。「上っていく」なら話し手は低い位置におり、「上ってくる」なら 高い位置にいます。  この場合も、「現在」を表すことができます。      木の葉がひらひらと落ちてきます。秋です。 「木の葉が落ちます」では現在のことを表しにくいのですが、「V−てくる」 にすると、今現在の動きを表せます。

[時間的な方向を示す場合]

 これがこの表現のいちばん特徴的なものです。時間が過去から未来へ流れる と考え、過去から現在までの流れは「くる」で、現在から未来へは「いく」で 表わされます。当然、「くる」は「きた」の形で使われます。       変わっていく、増えていく、太ってくる、暗くなってくる         時代はどんどん変わっていきます。 この町もこれから発展していくでしょう。      我が家の人口もここ数年で増えてきました。      もうずいぶん明るくなってきました。  ただ、実際にはもう少し複雑な使い方がなされます。例えば、朝早く、もう すでに明るくなっているときに、                          ずいぶん明るくなってきた。                  と言えばわかりやすいのですが、まだ全然明るくなっていないときに、         もうすぐ明るくなってくるから、それから・・・         と言うと、初めの説明とは違う使い方です。これは、話し手の気持ちが「すで に明るくなった時点」にあり、そこから振り返って表現するからだ、といった ような説明をすることになります。それで学習者が納得してくれるかどうかは、 何とも言えませんが。    

[動詞の意味による制限]  

   動詞によって、「行く・来る」のどちらかしか使わないようなものもありま す。意味的に片方としか合わないのです。    消失を表わす動詞は、ふつう「いく」としか使えません。              これまでにも戦争で多くの人が死んでいった。(×死んできた)       この計画のために、多額の金が消えていった。       図書館の本が次々と盗まれていく。   「過去から現在まで」という意味合いをこめても、「きた」はだめでしょう。  逆に、発生・出現を表わす動詞は「くる」とともに使われます。           雨が降ってきた。            霧の中から、古い城が現われてきた。           農薬などの影響によって、障害をもつ子供が生れてくるだろう。  「やってくる」「やっていく」はほとんど一語化していて、それぞれ「遠く から来る」「その状態で続ける」などの意味を表わします。

24.9 V−た/ている/る ところだ   

    アスペクトを表わす表現のなかで、ちょっと独特のものにこの「V−ところ だ」があります。まずは例文を。      今、帰ったところです。      今、ちょうどやっているところです。      今、始まるところです。 動詞のタ形・テイルの形・基本形に接続して、「直後・最中・直前」を表わし ます。上の例文ではみな「今」を付けましたが、ちょうどこの「今」の表わす 三つの意味に対応します。  では、「ところ」を付けない場合とはどう違うのか、が問題になります。      今、帰りました。                            今、ちょうどやっています。                       今、始まります。   「ところ」はもちろん場所ではありません。しかし、時間の流れを直線で表 わし、その中の「ここ」という気持ちと考えれば、場所とのつながりが出てき ます。ある出来事が始まり、続き、終わるという流れの中の「ここ」、今この 場面だ、という意味合いで「〜ところだ」を使うのでしょう。   ですから、単純な、例えば「Vている」との違いを考えると、      「彼は今何をしていますか」「窓の外を見ています」 に対して、                                    「彼は今何をしていますか」「窓の外を見ているところです」 はぴったりしません。と言うか、何か特別な文脈を考えたくなります。これを      「彼は今何をしていますか」「服を着替えているところです」 とすると、ある行動のつながりが暗示され、次の行動に移るための準備という 感じがするので、「ところだ」がぴったりします。               今やっているところです。 というと、急ぐように催促された時の言い訳の感じがしますし、      今、駅に着いたところです。 では、次に「これから〜」という文が来ることが期待されます。      今、駅に着きました。 とすると、単純に「着いた」事実を述べているようです。      今、行きます。 では、意志の表明という面をもちますが、      今、行くところです。 となると、予定された行動の連続の一場面という感じがします。      いやあ、ちょうど今、お届けにあがろうと思っていたところですよ。  これまでの例は、「今現在の場面」を表していましたが、次の場合は「今」 には関係ありません。たんにその「場面」を示します。     (写真の説明)えー、これは、感想を話し合っているところです。

[いくつかの制限]

 なお、「V−ている」の用法の中で、状態を表わすものはこの「ところだ」 の形にはなりません。     ×死んでいるところだ     ×来ているところだ     ×割れているところだ  どれもみな変でしょう。「着ているところだ」は「着た結果」ではなく、 「着ようとする動作」の最中であることを表わします。  そのほか、「×そびえているところだ」「×とがっているところだ」なども みな言いません。     ?毎日学校へ行っているところだ。 のような習慣・繰り返しの用法も、ふつうは言えないでしょう。      毎日学校へ行って、習っているところだ。(ちょうどそのことを) なら言えますが。  疑問文にはなりますが、否定文にはなりません。      おや、出かけるところですか?     ×いいえ、出かけるところではありません。  過去のことも言えます。      その時、私たちはちょうどその問題を話し合っているところだった。 過去のことで、そうなりそうだったがならなかった、という場合によく使わ れます。      もう少しで/あやうく 落ちる/死ぬ ところだった。  次に述べる「V−たばかりだ」は「V−たばかりのN」の形もありますが、 「V−たところのN」というと、ぜんぜん違う意味になってしまいます。いわ ゆる関係代名詞の直訳に使われる形です。      その会議で議論されたところの問題 現代語のふつうの言い方では、上の例の「ところの」は省略されます。

24.10 V−たばかりだ     

    この文型も、あることのすぐ後、まだあまり時間が立っていないことを表わ します。「V−たばかりのN」の形にもなります。      今、焼いたばかりです。おいしいですよ。      今、やっと読み終わったばかりです。       この分野はまだ勉強を始めたばかりですから、よくわかりません。      洗ったばかりのシャツは気持ちがいい。 「V−たところだ」と似ているので、その違い、使い分けが問題となります。      今、着いたところです。      今、着いたばかりです。 上の二つはほとんど同じように使えるでしょう。しいて言えば、「ところ」の ほうは、やはりいくつかの行動の流れの中で、今は「着く」ということが終わ った時点であり、次には、、、という意味合いを感じます。「ばかり」のほう は単に「着く」ということが終わったあと、まだあまり時間が立っていない、 というだけの意味です。含みとしては、「だからまだ(それ以外には)何もし ていない」という意味合いがあります。  そこをはっきりさせると、      今、着いたところです。これから調査に取り掛ります。      今、着いたばかりです。まだ調査は何もしていません。 とでもなるでしょうか。  「たばかり」は時間の短さを強調するのですが、物理的には長い時間でも、 気持ちのうえで短ければ使えます。        先月結婚したばかりなので、まだ新婚気分です。   その意味では、「たところ」のほうが直後と言えます。時間の短さというよ り、「場面」が変わっていない、という意識です。外国から飛行機で成田空港 に降り、誰かに電話をかけて、      今、日本に着いたところです。 と言うとぴったりですが、成田から東京まで出てきてから同じように言ったら ちょっと不適切でしょう。次の日に東京で誰かに会って言うなら、      まだ、日本に着いたばかりで、何も見ていません。 となります。  疑問文にはなりますが、否定文にはなりません。          あなたは大学を卒業したばかりですか。 ×卒業したばかりではありません。

24.11 〜たことがある 

 これもよく使われる表現で「経験」を表すと言われます。しかし、「経験」 とは何なのかと考えると、きちんとした定義は意外に難しいものです。結局、 ある人がこれまでにあることをしたことがある場合、「経験がある」と言う、 などと言ってしまいがちです。それはともかく、例文を見てみましょう。  例えば、外国人に対して、      「刺身を食べたことがありますか」「はい、この前食べました」      「歌舞伎を見たことはありますか」「いいえ、まだありません」 と質問するというようなのが、教科書の代表的な例文でしょう。この「が」は 文脈によって「は」や「も」、そして「さえ」などの副助詞になります。また、 回数を表す「三回」「何度(も/か)」などを「ある」の前に入れられます。 タバコなんて、吸ったことはもちろん、触ったこともありません。      見たことも聞いたこともない。      私はとてもくじ運がいいんです。宝くじの一等が当たったことさえ、      三度もあります。  あることの経験があるかどうかを聞くということは、そのことの経験がなく ても不思議でないようなこと、言い換えれば、多少なりとも特別なことです。      走ったことがありますか。 と言えるのは、そうでないことが予想されるような何らかの特別な状況、相手 に限られます。      42kmを走ったことがありますか。 という質問は意味をなします。 「経験を聞く」ということのもう一つの点は、「これまでに」というところ です。「過去のある時にしたかどうか」ではなく、現在まで続いている時間の 中に、そのことが「ある」かどうか、です。ただし、答えのほうは、ある特定 の時を示してもかまいません。これは英語の「現在完了」とは違うところでし ょう。      三年前に、一度(歌舞伎を)見たことがあります。  もう一つ、この「V−たことがある」で表される事柄は、現在とは切れてい ることが必要です。      結婚していたことがあります。 と言えば、現在は独身であることがわかります。 北海道に住んだことがある。 という人は、今は北海道に住んでいません。もちろん、      前にもこの町に住んだことがある。 と言えば、「前にも」があるので、今も住んでいることと矛盾しませんが、か なり長い不在期間があったことを暗示します。  動詞だけでなく、名詞述語・形容詞も受けることができます。      若いころ、一文無しだったことがあります。      こんな私でも、優等生だったこともあります。      彼の判断が正しかったことは一度もない。  否定の形を受けることもあります。肯定で表される状態の中で、否定で表さ れる状況が起こります。      一度だけ、時間に間に合わなかったことがあります。      何となく学校に行きたくなかったことがよくあります。  「こと」の両側に否定が現れる場合。 私の判断が正しくなかったことはない。 「常に正しかった」ということの強調です。  文末を過去にすると、回想的な気分が出ます。「これまでに」と言うより、 「過去のある時期に」という、現在から離れた事柄です。      子どものころ、叱られて泣いたことがよくありました。      この大会で優勝したことがあります。(今回も出場)      この大会で優勝したことがありました。(現役を引退) かっこの中は、ちょっと極端に対照させてみたものです。「〜た」にすると、 はるか昔を思い出している感じがします。

[シタ・シテイル・シタコトガアル]

 「V−ている」も似たような意味を表すことができます。      彼女は3年前に日本に来ています。      彼女は3年前に日本に来たことがあります。 この2つの表現の違いと、さらに、      彼女は3年前に日本に来ました。 との違いは何でしょうか。  まず、「V−たことがある」は起こることが当然のことには使えません。     ?彼女は3年前に大学を卒業したことがあります。 ×生まれたことがある   ×死んだことがある      この動物園で真っ白なパンダが生まれたことがある。      彼は終戦の年に台湾で生まれている/生まれた。  「V−ている」は多義なので、時の表現が必要です。      彼女は日本に来ています。 とすると、たんなる結果の状態で、「今もいる」ことになります。「3年前に」 を付けると、いたのはその時だけで、今はいないことが暗示されます。今もい るのなら、次のどちらかになるでしょう。       彼女は3年前に日本に来ました。      彼女は3年前から日本にいます。  たんに「来ました」とすると、今いるかどうかは考慮の外です。いることが 文脈で明らかになっていれば、その始まりを示し、いないことが明らかなら、 過去の訪問の時を示すだけです。

[〜/ない ことがある]

 アスペクトの表現とは言えない文型ですが、形の関係があるのでここで触れ ておくことにします。この文型は、「常にAだ」とは言えない、ということを 「Bすることがある」ことを指摘することで表す文型です。      いつも来ますが、たまに休むこともあります。      時々、私の家に寄ることもありました。      いつもというわけではないが、金額が合わないことがある。 「たまに」や「時々」と共に使われることが多いのですが、それに限りません。      こんな時は、雨が降り出すことがよくあります。 この例は、「予期しないことだが」という意味合いです。      予報は、正しいこともありますが、はずれることもあります。      男であることもあるし、女であることもある。      雨のこともあるけれど、雪のこともある。 これらの例では、確率は半々です。「どちらかとは限らない」という意味です。 動詞だけでなく、形容詞・名詞述語も受けます。  

24.12 V−つつある

                            話し言葉ではあまり使われない表現です。書き言葉で時々見かけます。特に、 「ている」が結果を表す瞬間動詞の「進行」を言いたい場合に使われます。例 えば、      枯れている  落ちている  変わっている などはふつう「動きの結果としての状態」を表しますが、現在その動きが途中 であることを表したい場合は、      枯れつつある  落ちつつある       時代は大きく変わりつつあります。 とします。  否定の言い方がないのも一つの特徴です。「×枯れつつありません」  「V−つつ」は複文を作ります。(→ 「47.並行動作」)      いやだと言いつつ、やっている。     

24.13 V−(よ)うとする

 「V−(よ)う」は意志形です。この形と、その主な用法である意志表現につ いては「32.4 V−(よ)う」を見てください。ここでは、派生的な用法である アスペクト表現をとりあげます。「V−ようとする」という形で「将前」(まさ にそうそうなる直前)を表します。  まず、無意志動詞に接続する場合から見ます。 開会式が始まろうとしています。      夜が明けようとしていた。  この例からもわかるように、書きことばで、多少文学的です。 意志動詞の場合、動作をこれから始めるところで、何か起こり、その動作を やめてしまうことが多いです。      食べ始めようとしたとき、電話が鳴った。      字を書こうとしたが、思い出せなかった。 飛び込もうとして、やめた。  この「V−(よ)うとする」は「32.8 V−(よ)うとする」でとりあげます。

24.14 複合動詞

 アスペクトに関する表現としては、以上のほかに「複合動詞」によるものが あります。動詞の中立形に他の動詞が接続して、一つの動詞となるものを複合 動詞と言います。この後ろにつく動詞の中に、動きの過程のある面を示すもの がいくつかあります。動詞の基本形・タ形、補助動詞のついた「V−ている」 などの表現では表せない部分を、これらが補っているわけです。(複合動詞全 体については「26. 複合動詞」を見てください) 

24.14.1 動きの始まり

。屐飮呂瓩襦

                                どうぞ先に食べ始めて下さい。  (意志動作)              雪が降り始めました。もう冬です。(自然現象) 私の子供も学校に行き始めました。(習慣の開始)       水が汚れ、魚たちが死に始めた。 (複数主体)

■屐歃个 (→ 26.3.1)

     雨が急に降り出した。      それを聞いてみんな怒りだした。      群衆が動き出した。      円が上がり出した。  「V−始める」は最もふつうに使われる「開始」の表現です。ある一つの動 作の開始だけでなく、「毎日学校へ行く」という習慣的動作の開始や、複数の 主体が同じことを次々とするということの始まりも表せます。  次の「V−出す」は、本来は「外に出す」という意味で動きの方向を表すも のですが、上の例のように動きの始まりも表せます。中に秘めていた動きが外 に現れ、動き始めた、というような意味合いで使われるのでしょうか。  「V−出す」が「V−始める」と違う点は、急に、突発的に、という意味合 いがあることです。逆に、「V−始める」のほうは予定されたことに使えます が、話し手自身の突発的なことには使いにくくなります。     ×私は急に笑い始めた。      その時、私は笑いだしてしまった。            上に出した四つの例では、初めの二つは「始める」では言いにくく、後の二 つは「始める」でも言えますが、そうすると多少「予想されたこと」という意 味合いになります。      群衆が動き始めた。(とうとう)      円が上がり始めた。(どうなるかと見守っていたところ)  「V−始める」は意志的な表現もできますが、「V−出す」ではあまり言い ません。      それでは、歩き始めよう。     ?じゃ、歩き出そう。  「V−出す」は結局、過去のある事実の描写に多く現れることになります。 上の例文が全部「〜た」になっているのはそのためです。もちろん、それ以外 のことが言えないわけではありません。      そろそろ鐘が鳴り出すだろう。      彼女がこの話を聞いたら、きっと泣き出すよ。

V−かける

(→ 26.3.2)      新聞を読みかけたが、すぐに止めた。      私は彼に手紙を書きかけた。その時、その彼から電話があった。      屋根の雪が少し落ちかけて、止まった。  「V−かける」も他の使い方がいろいろありますが、ここでは、動きが少し 始まって、そこで止まってしまうことを表します。  次の例では、その動き自体は始まっていませんが、そちらへ向かう動きがあ ったことを表します。       交通事故で命を落としかけたことがあります。  これも意志的な表現には使えず、過去の事実が多くなります。「V−かけた が、〜」「V−かけた時、〜」などの複文の形でよく使われます。     ×手紙を書きかけよう。  また、「V−かけだ/の」という形でも使えます。      その作業はまだやりかけです。      やりかけの仕事がありますので、ちょっと失礼します。      食べかけの御飯を残して行ってしまった。      行きがけの駄賃     上の「V−始める」や「V−出す」に「ている」がつくと、「動きの結果の 状態」を表します。      彼女はもう卒論を書き始めています。      人類は破滅に向かって走り出している。  「V−かける」の場合は、特に瞬間動詞の例が独特です。      この象は死にかけています。 「死ぬ」という動きは瞬間的なものですが、そこへ近付いて行く動きを表すの に、この形が使えます。これは「死んでいる・死に始める」などでは表せない ものです。      太陽が沈みかけている。      太陽が沈み始めている。    これは冗談みたいな話ですが、「始まる」には「V−始める」の形はなく、 「V−かける」の形を使わなければなりません。      映画が始まりかけている。(×始まり始めている)  「V−出す」を「出る」につけると、      玉がどんどん出だした。(パチンコで)  ただし、「出出す」と書くわけにはいきません。      恋人に電話をかけかけたが、やめた。 というのは、言いにくいだけで、文法的には問題ないでしょう。  「V−かかる」は、自動詞に付きます。      その木は枯れかかっていた。        乗りかかった船だ。       

24.14.2 動きの継続

。屐歛海韻襦β海

     きのうは朝から晩まで小説を読み続けました。      薬は途中で止めないで下さい。必ず飲み続けて下さい。      物価は毎年上がり続けています。      雨が降り続いています。  動きの継続を表す複合動詞は、「V−続ける」です。読んで字のごとく、動 作を「続ける」ことを表します。また、「上がる」のような自動詞にも接続し ます。  「V−続く」は「降り続く」以外には、「うち続く災難」「引き続く」のよ うな「続く」に接頭辞がついたと考えられるものしかありません。  「V−続ける」が「継続」を表すとするなら、「V−ている」とはどう違う のかということが当然問題になります。前に述べたように、継続動詞「読む」 は動きの動詞の常として、今現在のことは言えません。  それと同じように、「読み続ける」も動きの動詞ですので、今のことを言う には「ている」をつけなければなりません。                           ?いま、本を読み続けます。      いま、本を読んでいます/読み続けています。  結局、「V−続ける」はその継続動詞の「継続」という側面を強く表す、と いうことで、動詞としての時間的性質を変えるものではありません。      良心的であり続ける のように「−である」にも接続できます。                       

24.14.3 動きの終わり

。屐歃わる・終える

                               やっと原稿を書き終えた/書き終った。      荷物を部屋の中に運び終えた。  人の動作、特に他動詞に接続する場合が多く、「終える」は      

■屐櫃笋燹 

           赤ん坊がやっと泣きやんだ。      ベルが鳴りやんだ。  自然現象や、無意志的な人の行動に使われます。

V−あげる (→ 26.3.3)

 完成を意味し、製作を意味する動詞につきます。主体の動作としては「V− あげる」となり、製作されるものを「Nが」とすれば、「V−あがる」の形も 使える場合があります。      レポートをやっと書きあげた。      何とかレポートが書きあがった。       すばらしい作品を作りあげた。  「読み上げる」は「読み終える」と「声を出して読む」の二つの意味があり ます。「する・できる」は「しあがる・できあがる」となりますが、これらは すでに一つの動詞でしょう。

24.15 時間表現のまとめ

24.15.1 アスペクト形式の重なり

アスペクトにかかわる形式を数多く見てきましたが、これらが重なって使わ れることがよくあります。多少不自然な作例ですが、      みんなが走り始めているところです。      全額を払い終えてしまったばかりです。      わからなくなってきてしまったことがある。      焼きかけておいてあったところだ。      時代は大きく変化して行こうとしていた。 のようになります。どういう形式がどう重なるかは難しいのですが、「V−テ」 に接続する補助動詞は、むろん「ル/タ」より前に現れます。複合動詞はいち ばん動詞よりです。つまり、  テイク  テシマウ  テイル   ル    動詞+複合動詞+    +      + テアル  + テクル テオク   ツツアル   タ のように続き、その後に      〜トコロダ/バカリダ/コトガアル などの複合形式が続くのがおおよその順序です。これらの複合形式は、形式名 詞あるいは副助詞の前に「ル/タ」の対立を置くことができます。この「ル/ タ」の対立がテンスの対立なのかどうかというのはまた難しい問題です。また、 その後にさらに「−た」をつけることができます。      した ところだった/ばかりだった/ことがあった ここで注意すべきことは、「テイル・テアル」の前のところまでは、(「テ イク・クル」の一部の用法を除いて)一般の動きの動詞と同じで、そのままで は現在のことを表せないことです。「テイル」などを付けてはじめて現在の状 況を表すことができます。

24.15.2 事柄の「時」の表し方

   日本語の時間表現のうち、述語によって表されるテンスとアスペクトについ て長く見てきました。「23.テンス」の初めのところで述べたように、述語以 外にも、時に関する補語や副詞が重要な役割を果たします。  それらによって、ある事柄の起こった時とその時間的性質を表します。まず、 テンスによって、事柄の起こる時を「過去・現在・未来」と一応分けることが できるのですが、アスペクトがからむと、「完了」などの過去と現在をつなぐ 表現が生まれます。      3時に来た。 (過去)      もう来た。    (完了)      もう来ている。  (完了)      3時に来ている。 (記録)      今、来ている。  (現在)  そしてその動詞自体の性質と、他のアスペクトが、その事柄自体の性質、瞬 間的なことか、継続することか、事柄の始まりか終わりか、などを表します。  アスペクトは動詞だけで決まるものではありません。前に見たように、「寝 る」は「9時に寝る」と「9時間寝る」では意味が違います。また、「焼ける」 という動詞は、「(肌が)日に焼ける」と「肉が焼ける」では時間的性質が違い ます。「3時に来た」と「もう来た」では現在との関係が違ってきます。この ように、時の補語や他の補語、それに副詞がその事柄の時間的性質の決定に重 要な役割をもっています。  アスペクトは動詞にだけ関係するものとして述べてきましたが、他の述語も、 文全体としての時間的性質を考えると、動詞のアスペクトと同じように扱うこ とになります。 名詞文・形容詞文は、状態動詞と共に「状態述語」としてまとめられること を「23.テンス」の初めで述べましたが、「V−ている・てある」なども現在 を表すことができ、状態述語に入ります。ただし、その「状態性」の程度には いろいろ違いがあると考えられます。  また、その違いは、文全体の性格の違いによるとも言え、「は」のところで 紹介した「品定め文」と「物語り文」の区別にもつながります。そしてそれは 「は」と「が」の使い方にも関係します。  以上は、単文に関する時間表現の話です。単文は一つの事柄を表しますが、 複文は二つ以上の事柄を表しますから、その間の時の関係は複雑で、複文の中 の時の表現にはさらに複雑な表現が必要になります。 補説§24へ

参考文献
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