night
day

ホーム文法庭三郎


                                                                      

25. ボ イ ス

      25.1 概観       25.2 受身           25.3 使役   25.4 可能       25.5 自発       25.6 自他動詞との関係        25.7 V−テアゲルなど         補説§25       25.1 概観 25.2 受身   25.2.1 受身形 [受身形の作り方] 25.2.2 受身文の種類  …樟楴身1:人が      1 AがBをVする→BがAにV−される      2 AがBにVする→BがAにV−される      3 AがBにCをVする→BがAにCをV−される      4 AがBにCをVする→CがAからBにV−される      5 AがBをCとVする→BがAにCとV−される   直接受身2:モノが   「Nの」の受身 ご崟楴身 25.2.3 受身の使用条件 [受身の非用] [対象の主題化][V-テアル]    25.2.4 受身の分類 25.3 使役           25.3.1 使役形の作り方 25.3.2 使役文の種類   1 NがNをV−する → NがNにNをV−させる 2 NがV−する → Nが Nに/を V−させる 3 NがV−する(意志動作)→ Nが Nに/を V−させる 4 NがV−する(無意志動作)→ Nが Nを V−させる    5 再帰的な動作  25.3.3 使役受身    1 使役受身形の作り方 2 「短縮形」   25.4 可能          25.4.1 可能形 [「起きれる・食べれる」という形について]   25.4.2 V−コトガデキル   25.4.3 意味 25.4.4 V−ワケニハイカナイ 25.4.5 V−ウル/エル     25.4.6 V−カネル       25.5 自発   25.6 自他動詞との関係   25.6.1 受身・可能・自発と自動詞 25.6.2 使役と他動詞   25.7 V−テアゲル/クレル/モラウ 25.7.1 「恩恵」の授受  [目上に対する制限][恩恵の受け手]   [「V-テモラウ」の「Nニ」][受身・使役との関係] 25.7.2 「恩恵」以外の意味   25.7.3 V−サセテアゲル/クレル/モラウ 補説§25  §25.1 寺村秀夫の「態」のまとめ  §25.2 寺村秀夫の「態の体系」の図

25.1 概観

  
         ボイスというのは、文法用語としては耳慣れない言葉ですが、     「ある種の意味を表す複合述語が、その中心となる動詞の要求する       格助詞を変えさせ、新たな補語の型を作る現象」 です。この説明だけでわかる人はもともと知っている人だけだと思いますが。 日本語としては「態」ということばがよく使われます。「受動態」(この本で は「受身」としました)などという時の「態」です。英語の「Voice」の訳語か らです。なお、「ヴォイス」と書く人が多いのですが、どうせ発音の区別は(少 なくとも私には)できないのですから、「ボイス」としました。「ビバルディ Vivaldi」の「バイオリン協奏曲」で通用しているわけですから。  日本語の文の中で、述語と補語との関係を示すものは格助詞です。その中で 特に「ガ、ヲ、ニ」の三つが重要です。それらの格助詞が、述語につけられる いくつかの接辞の影響を受けて、他のものに変化することがあります。つまり その名詞と述語(接辞を含めた複合述語としての全体)との関係が変化するわ けです。  実際の例は次のようなものです。      親が子供を叱る → 子供が親に叱られる       子供が勉強する → 親が子供に勉強させる  初めの例を見ると、英語の「受動態」を思い出す人が多いのではないでしょ うか。英語の受動態は、      N1+V+N2 → N2+be+V-ed+by+N1 という操作として習いました。これは、どういう操作かというと、     元の文の動詞の目的語を主語の位置に据えて、元の主語を動詞の後ろ     に回して「by」をつける。動詞は「過去分詞形」にし、「be動詞」を     その前に置いて、、、 となかなか面倒な操作です。意味的には、「動作を受ける対象の立場にたって、 その動作を受ける」ことを表します。初めて習った時は、何でこんなことをす るんだ、と思った人も多いでしょう。もちろんこうするにはそれなりの理由が あるわけですが。  日本語にも、似たような文型があるわけです。そしてこれは、世界の多くの 言語に見られる現象のようです。もちろん、日本語の受身は、英語やそのほか の外国語のそれとはさまざまな違いを持っています。ですから、日本語学習者 の間違いやすいところです。よく話題になるのは、     雨に降られて困った。     夜中に赤ん坊に泣かれて、寝不足だ。 のような、対応する「NがNをV」の形の文がない、「自動詞の受け身」です。  上の二番目の例は「使役文」です。これも、英語や他の外国語にも似たよう な文型があります。この文型の意味は、ほかのことばでは説明しいにくいもの です。「ある人が、他の人に、何かを、させる」のだ、と言えば、日本人には すぐわかるのですが、それでは説明になりません。「させる」というのがまさ に「使役」の形ですから、それを説明しなければいけません。「ある動作が他 者の影響によって行われることを表す」ということにしておきましょう。これ では非常に不十分ですが。   受身・使役の二つがボイスの代表ですが、ほかに可能と自発と言われるもの があります。可能表現は、  中国語の新聞を読む → 中国語の新聞が読める  のように動詞の形が変わることと、助詞の「を」が「が」に変わる点でボイス に入れられるわけですが、助詞はかならずしも変えなければならないわけでは ない、ということと、逆に、変えると不自然になる例があって、「ボイスらし さ」はあまり強くありません。  また、可能表現には「V−ことができる」という形の複合述語もあります。 これはボイスではありませんが、いっしょに扱うことにします。  自発表現というのは、      そうであろうと思われます。 の「思われる」のようなものを言います。人が意図的にするのではなく、自然 にそうなる、と言う意味のものです。思考・感情を表す動詞に見られます。こ れも格助詞の変化はありませんが、形態的・意味的につながるところがあるの でここで扱います。他の文法書では、格助詞の変化のある例を含む場合があり ます。  前に「やりもらい動詞」というものをとりあげたことがありますが、これら の動詞を「V−て」の後に補助動詞としてつけた文型があります。その中で 「V−てもらう」がボイスの表現と似ているので、それらについても考えてみ ます。      ノートに漢字を書く      ノートに漢字を書かせる      ノートに漢字を書かれる ノートに漢字を書いてもらう      以上がボイスに関わる文型ですが、ボイスは自動詞と他動詞の対立に関係が あります。そこで、自他動詞の対とボイスの関係を最後に少し検討します。      横綱が倒れる(自動詞)      小結が横綱を倒す(他動詞)      横綱が小結に倒される(受身)

25.2 受身

 では、受身についてくわしく考えみましょう。     多くの人にとって、まず頭に浮かぶのは英語の「受動態」でしょう。英文法 の説明をそのまま日本語に移し替えてみれば、次の1が元になる能動態、2が その受動態といわれるものです。    1 Aが Bを V−する (猫がねずみを捕まえた)    2 Bが Aに V−される(ねずみが猫に捕まえられた)  この対応は日本語でも確かに成り立ちます。(用語は「受身」でも「受動」 でも同じですが、ここでは受身にしておきます。柔道では国際的に使われてい るようですし)  受身で考えるべきことは、動詞の受身形の作り方、上の例のような受身の作 り方、それ以外の受身の型、受身はどんな時に使うのか、などでしょう。それ らを一つずつ考えて行きましょう。

25.2.1 受身形

 まず、受身形の作り方から。動詞の活用のだいたいのことは前に述べてあり ますから、忘れた人はまたそこを復習しておいて下さい。受身形についてはそ こで述べなかったので、ここでかんたんに説明しておきます。

[受身形の作り方]

五段動詞   語幹に−areru をつける、またはナイ形(のナイをとった形)にレル  をつける。どちらの言い方でもいいのですが、後の方が学習者には覚え  やすいでしょう。     呼ぶ→呼ばれる   取る→取られる   書く→書かれる       踏む→踏まれる   打つ→打たれる   防ぐ→防がれる       死ぬ→死なれる   笑う→笑われる   話す→話される   一段動詞   語幹にラレルをつける     見る→見られる   変える→変えられる 不規則動詞      来る→こられる   する→される  なお、「立たされる」のような、いわゆる「使役受身」の形は「25.2.3 使 役受身」で扱います。                           

25.2.2 受身の種類

 さて、受身の具体的な話に入ります。  日本語の受身は、その「Nが」が人(動物)である場合が基本です。書きこ とば、特に新聞記事や科学的な文章ではそうでない場合のほうが多いのですが、 ここでは、今までそうしてきたように、日常的な話しことばをまず考えて行き ます。書きことばに多い受身文については、その後で考えましょう。 

 …樟椶亮身1:人が

 まず、すでに例を出したような、英語の受動文に相当するような型と、それ に類する型から。

-1 AがBをVする→BがAにV−される

    猫が魚を食べる→魚が猫に食べられる   動詞の対象が「Nを」で示されるような動詞です。いちばんふつうの受身。      ねずみが猫に捕まえられた/食べられた。      私は先生に/から しかられた/ほめられた。        追う、追いかける、食べる、呼ぶ、怒る、たたく、殴る、殺す、        抱く、憎む、愛する、信頼する、批判する、軽蔑する、・・・ 動作の主体はふつう「Nに」で表されますが、精神的な意味の動詞では「A から」の形も使われます。直接対象に働きかけて変化を加えるような「Bを」 でなく、「B」に対して精神的・言語的な働きかけをするだけだからでしょう か。      彼女はみんなから 愛され/憎まれ/信頼され/批判され ている。  さて、以上の例はみな「人(動物)が人(動物)にV−される」という形のもの でした。「人または動物」というのは、意識・感情を持つもの、という意味で す。例えば、最初の「魚が猫に食べられる」という例の「魚」は、池で泳いで いる金魚か鯉を思い浮かべるのがふつうでしょう。魚屋の店先に並んでいる魚 なら、「(魚屋が)魚を猫に食べられた」のような、(後で述べる「Nの」の 受身になって)「Nが」は「人が」になるでしょう。つまり、この「直接の受 身」では、「Nが」のNは生きているものであること、その動作を受けること を「感じる」ことができるものであることが基本にあるのです。  受身というのは、ある動作・現象を、その主体の視点から表現するのではな く、「その動作・現象の影響を受ける側の視点から表現する」、ということが 基本にある文型です。その「受ける側」として話し手が視点を置きやすいのは 意識を持つもの、文法書の言葉で言えば「有情」のもの、であるということに なるようです。   ただし、後で見るように「モノが」の受身ももちろんたくさんありますか ら、受身の基本的な発想として、「人が」の受身がある、ということです。  「人(動物)がモノに」の受身の例を少し。話しことばでは少ないようです。      私の目の前で、犬が車にはねられた。      私たちは、その事件に大きく影響された。        彼女は毎日仕事に追われている。 「仕事に追われる」は「?仕事が彼女を追う」とは言わないので、例外的  なものです。他の受身文からの類推による慣用的な言い方と見なします。  もう一つ慣用的な言い方で、「〜の手で」という形があります。      私は祖母の手で育てられた。  意味的には「祖母に育てられた」のでしょうが、このように言うことがあり ます。「×祖母の手が私を育てた」とは言えないので、対応する元の文がない ことになります。

-2 AがBにVする→BがAにV−される

犬が私にかみつく→私が犬にかみつかれる  上の「Bを」が「Bに」の例。ふつう、自動詞とされますが、直接的な対象 を取るものはそのまま直接の受身になります。      私は酔っ払いに寄りかかられた。(←酔っ払いが私に寄りかかる)      私は犬に飛びつかれた。(←いぬが私に飛びつく)        ほれる、ほえる、飛びかかる、・・・

-3 AがBにCをVする→BがAにCをV−される

友達が私に仕事を頼む→私が友達に仕事を頼まれる  補語が「に・を」の型で、対象の「Nに」が受身文の「Nが」になるもの。      友達に仕事を押しつけられた。(友達から)             ある人にこんなことを言われた。(ある人から)      私たちは彼女にいろいろなことを教えられた。(彼女から)  この文型では「Aに」の代わりに「Aから」を使うことができます。もとも と「Bに」が「到達点」のような意味合いを持っている(友達→私)ので、そ の逆の「出発点」の「Aから」に近くなるわけです。     

-4 AがBにCをVする→CがAからBにV−される

 同じく「NにNを」の「Nを」が受身文の「Nが」になるもの。元の「Nに」 が残っているので、「Aが」はわかりにくくなるのを避けて「Aに」にはなら ず、「Aから」になります。      新任の彼は支店長から皆に紹介された。  こういう例文を作ると、ずいぶんぎこちない感じがしますが、話しことばで は「Nから」か「Nに」が省略され、自然になります。      きのう、みんなに紹介されたけど、誰が誰だかまだわからないよ。 ただいま支店長からご紹介いただきました田中です。

-5 AがBをCとVする→BがAにCとV−される

 「BをCと」の補語をとる動詞です。数は少ないです。      彼女はみんなに幸運の女神と呼ばれた。(彼女を幸運の女神と呼ぶ)      彼の行為は監督者にカンニングとみなされた。(監督者が彼の行為      をカンニングと見なす)  「Bを」がない例。さらに少ないです。      彼女は彼と絶交した。→ 彼は彼女に絶交された。

◆…樟楴身2:モノが

 さて、以上では受身文の「Nが」が人の場合のみを取り上げました。人や動 物以外の名詞を受身の「主体」(受け手?)とすると、書きことばという感じが します。      オリンピックがソウルで開かれた。      メキシコではスペイン語が話されている。      多くの資料が集められた。      メダルが受賞者に渡された。      この小説は広く読まれている。      計画の概要が担当者から発表された。      この城は秀吉によって築かれた。      空は厚い雲に覆われている。      橋が洪水で流された。  これらを見て気づくことは、「人がモノをV−する」に対応する受身文「モ ノがV−される」で、「人に」は省略される、あるいは、言いにくい、という ことです。  「オリンピック」の例などは、「誰が開いたか」ということそもそも示しに くい事柄ですから、受身の形にして、「誰に」は表さなくてもいいようにしま す。これは「なぜ受身で言うか」という問題の答えの一つになります。  「誰がしたか」がはっきりしていても「モノが人に」は言えません。      彼が多くの資料を集めた。     ×多くの資料が彼に集められた。(「彼のところに」の意ではなく)      担当者が計画を発表した。     ×計画が担当者に発表された。(「担当者に対して」の意ではなく)  ただし、上の例にもあるように「人に」でなく、「人によって」「人から」 などの形にすれば可能です。「によって」のほうが硬い表現です。      多くの資料が彼一人(の努力)によって集められた。(×から)      計画の詳細が担当者によって/から 説明された。      メダルが大会委員長によって/から 受賞者に贈られた。      いくつかの問題点が彼女によって/から 指摘された。      その話は彼から彼女に伝えられた。(←彼が彼女にその話を伝えた)      新郎の経歴が仲人から人々に紹介された。  「Nから」が使えるのは、元の動詞が何らかの意味で対象に対して方向性を 持っていると考えられる場合です。言語的な「発表する・伝える・指摘する・ 紹介する」や、所有の移動を表す「渡す・贈る」など。  「小説」の例では、「多くの人々に」とすることができます。特定の個人で はなく、一般的な人々・集団であるような場合は「人に」が可能になります。 個別の出来事ではなく、状態的になります。      この歌は子どもたちに親しまれている。      ワープロは小説家にも使われている。  「人のあいだで」という言い方もあります。      この伝説は国民のあいだで広く信じられている。  「モノがモノに」という形は、数は多くないとしても可能です。また、「モ ノに」が原因の意味合いを持つので、「モノでV−られる」という形が多くな ります。      空は厚い雲に/で 覆われている。      橋が洪水で/に 流されてしまった。      その村は回りを山に/で 囲まれていた。 木の葉に/で さえぎられて、日が当たらない。      小屋は落ちてきた岩に/で つぶされ、原形をとどめていなかった。

「Nの」の受身

 以上は、受身の「Nが」になるものが、元の文で動詞の補語でしたが、そう でない受身文があります。一つは、元の文で動作の対象となる補語を「Nの」 の形で修飾している要素が、受身文の「Nが」になる型のもの。こう言うと何 か複雑ですが、実際にはよくある文です。「持ち主の受身」と呼ばれることが あります。「直接の受身」の対象と受身文の「Nが」がちょっとずれた感じで す。    AがBのCをVする→BがAにCをV−される    誰かが私の足を踏んだ→私は誰かに足を踏まれた      彼はすりに財布をすられた。      先生にレポートをほめられた。      小学校の先生に息子をほめられた。      肩をたたかれて振り向くと、彼がいた。      朝顔に釣瓶とられてもらい水  この中で「C」が体の部分の場合と、持ち物・作品(子どもは作品?)など の場合があります。  体の部分の場合は、「BのCを」をそのまま「BのCが」には持って来にく いという傾向があります。     ? 彼の足が(は)誰かに踏まれた。     ? 私の肩が(は)たたかれた。(「私は肩をたたかれた」との違い)  それに対して、持ち物などの場合はいくらかいいようです。      彼のかさは誰かに持って行かれ(てしまっ)た。      私の息子が先生にほめられた。  この「AがBのCを」を「BがAにCを」とする型の受身はよく使われるも のですが、日本語学習者にとっては使いにくいもののようです。上に述べたよ うな「BのCが」にしてしまう誤りがよく見られます。  この受身と次の「迷惑の受身」との違いは微妙なところがありますが、一応 はこちらのほうが動作の影響が直接的であると言えます。

ぁヾ崟楴身

 もう一つは、元の文には受身文の「Nが」が直接出ていないものです。むろ ん、元の文の内容と、その「Nが」とが何の関係もなければ受身文にはならな いので、何らかの被害・影響を受ける立場にあります。そして、この受身文の 特徴は、必ず「迷惑」を受けることを表すことです。迷惑といっても、「殴ら れる・殺される」のような直接的なものでなく、「はた迷惑」と言ったほうが いいものです。    A 子どもたちは、学校の帰りに雨に降られた。(雨が降る)      私はゆうべ赤ん坊に泣かれて眠れなかった。(赤ん坊が泣く) そんなところに立っていられては迷惑です。(人が立っている)      彼女は若くして夫に死なれ、幼い子どもたちを育てあげるのに苦労      した。(夫が死ぬ)      おい、動け。こんなとこでエンコされたら困るよ。(愛車が) B 弟にケーキを全部食べられてしまった。(弟がケーキを食べた)      電車で隣の人に窓を開けられ、風で髪がばさばさになってしまった。 (隣の人が窓を開ける)      家の前にマンションを建てられて、日があたらなくなった。      野党にその点を問題にされると、ちょっと面倒だな。      同僚にいい成績をあげられると、比較されて迷惑だ。      (同僚がいい成績をあげる:迷惑の受身)      (上司が私を同僚と比較する:直接の受身)  日本語の受身の特徴としてよく言われる「自動詞の受身」もこの中に入りま す。上のAの例がそうです。  しかし、この文型は他動詞でも成り立ち、自動詞だけのことではありません。 Bは他動詞ですが、同じ迷惑の受身です。むしろ、自他を通じて持っている共 通の特徴(受身文の「Nが」が元の文にないこと)が重要なのです。また、こ の受け身の「Nが」はほとんど「人」であることも大きな特徴です。「はた迷 惑」というような感情を持つのは人間(と高等動物)だけだからです。ただし、 いわゆる「擬人化」された場合と、人間の集団である「組織」は人扱いです。  これらの受身の多くは、「Nの」の受身と同じように、受身文の「Nが」の 名詞を「Nの」の形で「元の文」に当てはめることができます。      私の学校の帰り    私の赤ん坊      私の隣の人      私の家の前 けれども、「Nの」の受身とは、それらの「のN」の名詞が動詞の対象となっ ていないという点が大きく違います。「直接」に動作を受けていないのです。  微妙な例が「ケーキを食べられた」という例です。「私のケーキ」で、その 「ケーキ」は「食べる」の直接の対象になります。しかし、「ケーキを食べる」 という行為は、「足を踏む・財布をとる・レポートをほめる」などのような、 他者に対する行為とは言えませんから、間接受身に入れておきます。  また、元の文の「Nが」は「Nに」に必ずなり、それ以外の形にならないこ とも大きな特徴です。      悪徳地主に/×によって 家の前に高い塀を建てられた。(間接)      cf.日が差さないように、悪徳地主によって/×に 高い塀が建て       られた。(直接)

25.2.3 受身の使用条件

 さて、受身文はどんな時に使われるのかが次の問題です。動詞の「対象」と なっている名詞を「Nが」の位置に持ってくる、というのが受身文を使うねら いなのですが、では、なぜ「Nが」の位置に持ってくるのか、という問いが生 まれます。  まず、文脈の中で話題となっているものを「Nが」の位置に持ってくるため に受身文を使う場合があります。 1 彼は手にけがをしている。犬にかまれたのだ。    2 彼は手にけがをしている。犬がかんだのだ。  どちらの文も可能ですが、1のように受身にすると、主題(彼)が一致して、 文のつながりが密接になります。(→「60.文のつながり」  同様に、複文の中で「Nが」の交替をさけることにも有効です。    3 (彼が)大きな失敗をしたので、上司は彼を叱った。      彼は大きな失敗をしたので、(彼は)上司に叱られた。    4 ねずみは走って逃げたが、猫はついにねずみを捕まえた。      ねずみは走って逃げたが、ついに猫に捕まえられた。  また、前にも述べたように、「誰が」ということを言いにくい場合に受身が 使われます。    5 ソウルでオリンピックが開かれた。 アメリカでは、たくさんの人が銃で殺されている。

[受身の「非用」]

 受身でよく問題になるのは、受身を間違って使うこと(「誤用」)ももちろ んですが、学習者がそもそも受身を使わない、使えないということがあります。 使ったほうがいい場面で使うことをさけてしまうことを「非用」と言います。 上にあげた例で言うと、      彼は大きな失敗をした。だから、上司が彼をしかった。 のような言い方をしてしまうことです。間違いとは言えないのですが、自然な 言い方ではありません。受身の言い方を知らないか、あるいは受身を使うこと に自信がないために、ついさけてしまうということもあるでしょう。 受身という文型の特徴の一つとして、使わなくても何とかなることが多い、 ということがあります。他の文型で言えるのです。  間接受身の場合は、いっそう「非用」が多いことが予想できます。前にあげ た例は、      赤ん坊が泣いたので眠れなかった。      野党がその点を問題にすると、ちょっと面倒だな。 のように、受身にしなくても何ら問題がないからです。しかし、ここで迷惑の 受身を使うと、いかにもこなれた日本語らしくなるわけです。

[対象の主題化]

 受身を使わずにすませるための他の文型の一つに、対象の主題化があります。 受身というのは、ある動作・現象を、その主体の視点から表現するのではなく、 「その動作・現象の影響を受ける側の視点から表現する」、ということが基本 にある文型だ、ということを前に述べましたが、主題化も似たような働きがあ ります。   1a 二郎が太郎を殴った。 b 太郎は二郎に殴られた。    c 太郎は二郎が殴った。   2a A氏がこの論文を書いた。    b この論文はA氏によって書かれた。    c この論文はA氏が書いた。   3a 弟がケーキを食べた。    b ケーキは弟に食べられた。    c ケーキは弟が食べた。  1の直接受身の場合は、視点を変えるという意味では受身のほうが自然です。 cのような対象の主題化は、対比的な意味を帯びやすく、かえって動作者であ る「二郎」を際だたせることになります。  2bのような「モノが」の受身は、書きことばであるという文体的特徴が加 わるほかは、cの主題化と同じような効果を持ちます。  3bの迷惑の受身は、話し手の受けた心理的な影響をはっきり示します。そ れに対して、cの主題化は、単に事実を述べているだけです。

[V−てある]     

 「V−てある」も受身との使い分けがあります。      机の上に花瓶が置いてある。      机の上に花瓶が置かれている。      壁に「禁煙」と書いてある。      壁に「禁煙」と書かれている。  どちらも動作者を暗示している点では同じですが、受身のほうがより強く示 します。  また、「V−られている」は進行中の意味にとれる場合が当然あります。      机の上に食器が並べてある。      (今)机の上に食器が並べられている。  「V−てある」は、すでに並べ終わった状態しか示しませんが、「V−られ ている」のほうは、その最中であることも示せます。

25.2.4 受身の分類

 以上で受身の用法の話は終わりますが、最後に受身の種類の分類のことを少 し述べておきましょう。  前に述べたように受身文を大きく 崢樟楴身」、◆屐孱里痢廚亮身」、 「間接受身」に分けることは、比較的広く受けられているものですが、その 名称は色々です。(「受身」と「受動」はおなじものとしても)  ,蓮崔噂禺身」とも呼ばれます。この中で「Bに」が 「Bが」になるも のを「間接対象の受身」と呼ぶ人があり、後の「間接受身」とまぎらわしくな ります。  は「迷惑の受身」「第三者の受身」などと呼ばれることも多いのですが、 そこでも述べたように、これを自動詞だけのことと誤解して、「自動詞の受身」 と呼ぶこともあります。  さて、問題は△侶燭琉銘嵒佞韻任后これ自体は、「所有者の受身」「持ち 主の受身」などと呼ばれます。それはいいのですが、これをの型とまとめて、 広い意味で「間接受身」とする考え方と、,侶燭箸泙箸瓩董崢樟楴身」とす る考え方が対立しています。 その点だけを取り出して、図にすると次のようになります。        機             ´供               直接受身──┬─ |噂禺身──────直接受身              └─◆〇ち主の受身─┬──間接受身            間接受身──── 迷惑の受身──┘                軌討旅佑方は、受ける影響の直接性(足を踏まれる痛みは「間接的」なも のではないでしょう)を重視したものです。それに対して彊討蓮◆孱里」に なる補語が元の文の動詞の「直接の補語」でないこと(補語にかかる「Nの」 だったり、そもそも文中になかったり)を重視しています。  どちらがいいかは、まだ議論が続くでしょうが、軌討陵点は、気痢峇崟 受身」は意味的に皆「好ましくないこと」になることです。持ち主の受身では、 「レポートをほめられ」たりして、いい場合もありますから。間接受身は、好 ましくない、間接的な影響を受けることを表す文型だと言うことができます。  また、「ほめられる」のような例があるにしても、受身文は一般にあまり好 ましくないことを表すことが多いのは事実です。では、好ましいことはどうや って表すのでしょうか。      電車で隣の人に窓を開けられた。      電車で隣の人に窓を開けてもらった。      電車で隣の人が窓を開けてくれた。  「もらう」の例は、何か「頼んでしてもらった」ような意味合いが感じられ ますが、意味的には受身文に対応するものといえるでしょう。      家の前に看板を建てられた。      家の前に看板を建ててもらった。 の例でも、好ましさのプラスマイナスがちょうど表されています。  この「V−てもらう」とその他の「やりもらい動詞」による複合述語はまた 後でとりあげることにします。(→「25.7 V−てあげる、など」)

25.3 使役文

                       「使役」というのは一般には聞き慣れないことばです。辞書によれば、「人 を使って仕事をさせること」ですが、実際には文法以外ではあまり使われない ことばでしょう。  それはともかく、初級文法ではかならず出てくる文型ですので、一通り見て おきましょう。まず、使役文とはどんな文を言うのか、基本的な例を。      子供がご飯を食べます。(「元の」文)      お母さんが子供にご飯を食べさせます。(使役文)  上の例のように、ある「Nが(子供が)」の動作を表す文を基本に考えて、 そのことが他の「N(お母さん)」の何らかの影響によって起こったととらえ ることを表す文、を使役文と言います。かえってわかりにくい言い方ですが。  使役文で大切なことは、上の例でいえば、実際に動作を行うN「子供」が、 使役文では「Nに(子供に)」に変わっていることです。使役文を聞いたとき、 誰が実際に動作を行なったのかがすぐにわからなければなりません。  上の使役文が表わす意味は、子供の動作「ご飯を食べる」が、お母さんの関 与によって実現する、ということですが、子供の気持ちからすると、二つの場 合が考えられます。  まず、子供自身がおなかがすいてご飯を食べたくなり、「ねえ、ごはん!」 と言って、それを聞いたお母さんが「食べさせた」場合。「ご飯」より「お菓 子」にしたほうがわかりやすいでしょうか。このような場合を「許容」の使役、 と呼ぶことにします。  もう一つは、子供自身は食べたくないのだけれど、お母さんが「食べなさい」 と言って多少むりやりに「食べさせる」場合。このほうが「食べさせる」の基 本的な語感に合うようです。これを「強制」の使役、としておきます。  上の例文を読んだとき、許容と強制のどちらの意味に感じたでしょうか。そ の中間というのが自然なところでしょうか。そのどちらかであることをはっき りさせたい場合は、「むりに」などの言葉を加えたりすればいいわけです。  使役文は、話しことばではそれほど多く出てきません。どちらかというと、 客観的な描写の表現だからです。「私」を中心に物事を述べて行くと、使役文 よりも、後で説明する「使役受身文」の方が、形は複雑ですが、むしろ多く使 われるようです。      先生は私たちに作文を書かせた。(使役文)      私たちは先生に作文を書かせられた。(使役受身文)  上の使役文は、「私たち」を外から描写しているので、小説のような感じがします。  なお、受身文と比べて使役文の特徴は「元の文」より補語が一つ増えている ことです。受身文で言うと、「迷惑の受身」とこの点では共通します。  では、動詞の形の作り方から考えて行きましょう。

25.3.1 使役形の作り方

  五段動詞  語幹に -aseru をつける、またはナイ形(のナイをとった          形)にセルをつける。          話す→話させる  書く→書かせる   泳ぐ→泳がせる         読む→読ませる  遊ぶ→遊ばせる   死ぬ→死なせる         立つ→立たせる  走る→走らせる   笑う→笑わせる    一段動詞  語幹にサセルをつける。            着る→着させる  開ける→開けさせる   不規則動詞  来る→来させる  する→させる  使役形の作り方自体は非常に規則的なものですが、使役形と混同しやすい形 の他動詞がいくつかあります。別の動詞の使役形と並べてみます。      見せる   見る→見させる  似せる   似る→似させる      乗せる   乗る→乗らせる  浴びせる  浴びる→浴びさせる      かぶせる  かぶる→かぶらせる        寝かせる  寝る→寝させる    これらの他動詞と使役形との間には微妙な使い分けがありますが、そのこと は「25.6 ボイスと自他動詞との関係」で述べます。

25.3.2 使役文の種類

NがNをV−する → NがNにNをV−させる

 初めの例「子供にご飯を食べさせる」では、元の「Nが」は「Nに」に変  わっていました。これは元の文が他動詞文だったことによります。言い換える と、元に「Nを」がある場合は、「Nが→Nに」と変えなければなりません。      子供が牛乳を飲む → 母親が子供に牛乳を飲ませる      生徒が作文を書く → 先生が生徒に作文を書かせる

NがV−する(意志動作)→ Nが Nに/を V−させる

 自動詞文の場合、つまり「Nを」がない場合はどうなるのでしょうか。      子供が学校へ行く → 親が子供を学校へ行かせる      子供が一人で行く → 親が子供に/を 一人で行かせる 親が子供に/を 一人で学校に行かせる  自動詞の場合は「Nを」になることが多いようですが、「Nに」でも言えま す。「到着点」の「Nに」があるかどうかも影響します。  この「Nを」と「Nに」では意味が違うという研究者がいます。「Nを」は そのNの意志を無視した「強制」で、「Nに」のほうはその意志が尊重されて いる、というのですが、どうでしょうか。私にはそれほどの違いは感じられま せん。  また、そのように「強制度」の違いを言い分ける必要があるとするなら、他 動詞文の場合はそれが無視されているわけで、体系的になっていないことにな ります。  さて、すべての場合に「Nに」で言えるなら、この場合もそうしてしまえば、 簡単でいいのですが、後で見るように「Nを」でなければいけない場合があり ますから、そうも行きません。  この、どちらでもいい場合はどうしたらいいでしょうか。教育上は「Nを」 を教える方が他動詞と対比させる意味でいいでしょう。実際の頻度も考慮して。  「通過/出発点のヲ」などがある場合はどうでしょうか。      子供に/?を 山道を/長い距離を 歩かせる  やはり「に」の方がいいようです。

NがV−する(無意志動作)→ Nが Nを V−させる

 自動詞で、意志的な動作でない場合です。      友達が笑う → 彼が友達を笑わせる      親が心配する → 子供が親を心配させる  この場合は、かならず「Nを」になります。ここでは、「N」の意志がない という説明がいきてきます。    

再帰的な動作

 「再帰的」というのは、自分の部分について、動作の結果が自分に帰ってく るような動作を言う場合で、自動詞と他動詞の中間のような表現になります。  この場合も必ず、「Nを」になります。      木が花を咲かせる             子どもたちは胸をどきどきさせていた。 

25.3.3 「使役受身」について

使役受身形の作り方

 使役文はさらに受身になります。日本語学習者にとっては、頭がごちゃごち ゃしてくるような話です。      母親が子供を買い物に行かせる     行く→行かせる          →子供は母親に買い物に行かせられる 行かせる→行かせられる  「行かせる」自体は一段動詞ですから、「見せる→見せられる」と同じよう な受身の形になります。例をもう少しあげておきます。      私は恋人においしくない料理を食べさせられた。      学生は先生に作文を書かせられた。      子どもにおもちゃを買わせられた。      部屋を掃除させられた。      この場合、使役文の二つの意味のうち、「強制」の意味にしかなりません。  「?読まさせられる」という形を聞くことがありますが、これは誤りです。

「短縮形」

 先ほどの「行かせられた・書かせられた・買わせられた」の形は、話しこと ばでは、次の形になることが多いです。      行かされた  書かされた  買わされた つまり「−せられた」が「−された」になるのです。  これを「使役受身」の「短縮形」と言います。この短縮形はすべての使役受 身にあるわけではありません。元の動詞が一段動詞である場合、      食べる→ 食べさせる→ 食べさせられる→ ×食べさされる      いる → いさせる → いさせられる → ×いさされる となるはずですが、最後の形は、あるいは聞くことがあるかもしれませんが、 正しい形と認められていません。一段動詞の使役形には短縮形はないのです。 不規則動詞にもありません。      勉強させられる→×勉強さされる  来させられる→×来さされる  また、五段動詞でも、「−す」の動詞の場合、      話す → 話させる → 話させられる → ×話さされる となって、短縮形は使えません。  このようにいろいろとやっかいな形なので、規則的な形作りをしっかり覚え るよりも、よく使われるものをそのまま覚え込んだほうが、学習者にとっては いいのかもしれません。

25.4 可能

   
                可能表現は、可能性、つまり、あることが起こるかどうかを実際の問題とし て問うのではなく、その主体に内在する能力・属性としてとらえます。    可能表現の形式は大きく二つに分けられます。一つは動詞の基本形に「こと ができる」を付けたもので、もう一つは動詞の可能形を使うものです。動詞は 意志動詞に限られます。      あの人は中国語を話すことができます。      あの人は中国語が話せます。  日常の話し言葉では、短いほう、つまり可能形がよく使われますが、書き言 葉では「V−ことができる」の形がよく使われます。     日本語教育の初級では、可能形という活用形の難しさということを考えて、 「V−ことができる」の形を先に提出することがあります。話しことばとして は冗長であまり勧められない言い方ですが、言い間違い、聞き間違いの危険性 が少ないということを重んじるのです。意味的には、上の例でも分かるように 特に違いはありません。では、それぞれをもう少しくわしく見ていきましょう。

25.4.1 可能形

  可能形の作り方      五段動詞 語幹に -eru(emasu)を付ける           yom-u → yom-eru  書く→書ける  打つ→打てる      一段動詞 語幹に−rareru(raremasu)を付ける                   起きる→起きられる  食べる→食べられる          不規則動詞                                   する→できる   来る→来られる  五段動詞の場合、可能形自体は一段動詞として活用します。「読む」と「読 める」ではずいぶん形が違うようですが、それぞれをマス形にすると、       読む:読みます   読める:読めます となって、母音の -i- と -e- の違いだけになります。これは学習者にとっ ては聞き分けにくく、また言い分けにくいものです。ですから、初めに述べた ように、「〜ことができる」のほうが使いやすいということになります。  これをボイスに入れるのは、助詞の交替があるからです。他動詞の対象の 「Nを」が「Nが」になり、「は・が文」になります。単一の動詞「できる」 と同じ形です。      彼は中国語の新聞を読んでいます。      彼は中国語の新聞が読めます。      彼は中国語ができます。  ただ、このガ/ヲの交替は、「できる」の場合とは違って、義務的なもので はありません。特に、スル動詞の場合や、否定の場合、「Nが」と動詞の間が 離れている場合は「Nを」のままでもかまいません。 練習メニューを何とか消化できた。      大きな声で夢を語れなくなった。      こんな難しい本を辞書なしですらすら読めるなんてすごい。  「を」以外の助詞は変わりません。場所の「Nを」も「が」になりえます。      歩いて大学へ行ける。           橋ができて、かんたんに川が/を 渡れるようになりました。      何とか大学が/を 卒業できました。  また、主体の「Nは」が対比の意味を帯びたりすると、「Nには」の形にな ることがあります。「は」の後ろに隠れていた「に」が出てくるのです。      こんな難しい本は私にはとても読めません。      これは、小学生には書けない文章だ。  この「Nに」は能力の「持ち主」を表します。      

[「起きれる・食べれる」という形について]

可能形の形として、新しい形が広まりつつあります。一段動詞に「−られる」 を付けるのではなく「−れる」を付けた形です。      起きる → 起きれる     食べる → 食べれる      見る  → 見れる      出る  → 出れる  この形については、さまざまなことが言われていますが、今のところ、日本 語教育ではまだ認められた形とは言えません。尊敬や受身とは別の形になるの で、機能が分化することになり、言語構造からすると好ましい変化なのですが、 やはりそれ以前の文法形式が身に付いた人にとっては「崩れた形」という意識 を捨て切れません。話しことばでは許されるが、書きことばではまだ認められ ていない、ということにしておくのがよいでしょう。  また、使用頻度の低い動詞や、形の長い動詞ではまだこの形が使われにくい ということもあるようです。      かかえる →?かかえれる   にげのびる →?にげのびれる

25.4.2 V−ことができる

 この形は「Nができる」のNの所に「V−こと」が入っている形ですから、 後で複文のところで扱う「名詞節」になります。しかし、日本語教育では、 「V−ことができる」全体を一つの複合述語として扱うことが多いようです。 そのほうがわかりやすく、練習もしやすいからです。ここでもそのように考え ることにします。     作り方はまったくかんたんです。動詞の基本形に「ことができる(ます)」 を付けるだけです。      中国語が話せる。      中国語を話すことができる。  ただし、否定文は注意が必要ですす。「中国語を話す」の例で言うと、否定 されるのが「中国語」なのか、「話すこと」なのかで違ってきます。      あの人は中国語を話すことはできません。 「話すこと」を否定したい場合は、「が」を「は」にしたほうが自然です。こ れは「Nができる」の場合と同じですから、特に難しいことではありません。 「中国語」の否定は、「話せない」を使う方がふつうでしょう。      あの人は中国語は話せません。(英語は話せます)  次の文はいかにも冗長です。      あの人は中国語は話すことができません。  この文型の一つの特徴は、「が」のところに「は・も・さえ・ぐらい」など の副助詞が容易に入りうることです。      話すことも、書くこともできます。      目をつぶって将棋を指すことさえできる。  動詞の可能形で同じことを言おうとすると、形式動詞「する」を使った硬い 言い方になってしまいます。      話せも書けもします。     ?目をつぶって将棋を指せさえする。  

25.4.3 可能表現の意味

 可能表現の意味は、ふつう大きく二つに分けられます。一つはある主体がそ の動作を実現する可能性を持っていること、つまり能力を持っている、という ことを表わします。「能力可能」と言います。上の「中国語が話せる」などは この例です。  もう一つは「状況可能」で、ある条件が満たされるような状況で、あること が可能になる、ということを表わします。ですから、これは「誰に」という個 人は問題にしない場合も含みます。  日本語ではこの二つは特に区別されないので、どの例がどちらかということ を特に気にする必要はありませんが、学習者の言語によってはこれらを区別す ることがあるので、そういう分け方があることは知っておいたほうがいいでし ょう。  日本語の可能形はそれとはまた違った意味の広がりがあります。      私は ピアノがひけます/泳げません/ワープロが打てます。      この問題は、私には解けません。あの人なら解けるでしょう。      明日、6時に 来られますか/起きられますか/会を開けますか。      彼女のことが忘れられません。どうしたら忘れることができるでし      ょうか。 今の政府では、この問題は解決できない。      この文型は「ボイス」の文型に含めることができる。       プールは1時から使えます。ただし、子どもは入れません。 会議室ではタバコは吸えません。ロビーで吸って下さい。      この布は、ふつうのはさみでは切れません。       この水道の水は飲めません。あちらのは飲めます。      信じられないことが起こった。  初めのほうの例は、「Nは」が何らかの能力、または潜在的な力(起きられる ・忘れられる)を持つかどうかを表していますが、後のほうの例は、何かがその ような性質を持つかどうかを表しています。「水が飲める」のは、飲む人の力 ではなく、その「水」自体の持つ性質(この用語が適当かどうかは別にして)で す。  「飲む」は「人が水を飲む」という補語の型を持っていますが、ここでは 「人」が消えてしまって、「水が飲める」という自動詞に近い型になっていま す。  過去形の意味を考えてみましょう。      学生の時は、15キロを1時間で走れた。      昔はこの川でも泳げたが、今は水質汚染で泳げない。      花粉症で鼻が詰まって夕べもよく眠れなかった。 3時間かかって、中学入試の幾何の問題がやっと解けた。 やった!とうとう100メートル泳げた!  過去にある能力があったということ、あるいは、あることを可能にする状況 があったということ、などは現在形の意味と対応します。しかし、「解けた」 「泳げた!」などの例は、ある事柄の可能性の「実現」という意味合いが生ま れています。      100メートル泳いだ。      100メートル泳げた。  「泳いだ」は、過去のある事実の報告です。「泳げた」も「昔は〜」なら、 過去の能力を表すだけですが、上の例のような場合は、具体的・個別的な事実 の報告です。  現在形は「可能性の内在」を表しますが、この過去形は「過去の可能性」の 有無を表しているというより、「過去における可能性の実現」を表していると いうことになります。つまり、「あることが起こった」という一般の動きの動 詞の過去に近くなっています。     可能形に「−ている」が付けられることがあります。可能形自体が状態動詞 なのですが、それに「−ている」が付くのは、その可能性の実現を意味する場 合です。      彼は静物画が上手に描ける。      この静物画はうまく描けている。  「彼は絵が描ける」は潜在的な能力ですが、「うまく描けている」は現実に 存在する絵の評価です。そのような意味合いにならない場合は、別の意味に解 釈されてしまう場合もあります。      彼はこの金庫がかんたんに開けられる。(可能:彼の能力)      この金庫はかんたんに開けられる。(可能:金庫自体の性質)      この金庫はかんたんに開けられている。(受身)

25.4.4 V−わけにはいかない(いきません)  

     可能の意味を表す他の形式を見ておきます。これらは格助詞に影響しないの で、「ボイス」の形式とはしませんが、可能形に代わって使われるので「可能 表現」の一部ではあります。  まず、形式名詞「わけ」を使った文型から。動詞の基本形とその否定の形に 接続します。動詞「いく」の否定の形と同じ形になります。過去もあります。      主賓がいないのに、会を始めるわけにはいきません。      ここでやめるわけにはいかない。       何があっても、行くわけにはいかない。        頼まれれば、断るわけにはいきませんでした。  そうしたくても、あるいは、そうしたほうがいいのだけれども、ある事情か らそうできない。そして、その事情とは多分に心情的なもののようです。動詞 の主体は人です。      このプールは、会員以外は泳げません/3時以後は使えません のような規則による場合は「わけにはいかない」は使えません。能力可能と状 況可能の二分法では、状況可能に近いのですが、もっと狭く、微妙な意味合い を持っています。       「わけ」は形式名詞で、「そういう」で連体修飾することができます。      「見逃してくれ」「いや、そういうわけにはいかないよ」 (そういう=見逃してやる)  否定形を受けた「V−ないわけにはいかない」は「36.義務・必要・不必要」 でとりあげます。

25.4.5 V−うる/える

 可能性の有無を表します。動詞の中立形に接続します。「−うる」は基本形 だけで、他は「−える」の活用形を使います(しえない・しえます・しえた・ しえよう、など)。硬い書きことばです。非意志動詞にも付けられます。  時間内に解決しうる/しえる 問題を取りあげましょう。      その美しさは、私の力では表現しえない。 私が言いうることはこれだけだ。  以上の例(意志動詞)では、「可能形・V−ことができる」のどちらも使う ことができますが、以下の無意志動詞・「〜である」などの例ではできません。 ここが「V−うる/える」の特徴的なところです。      そんな事故は起こりえない。(×起こられない/起こることができ      ない)      なるほど、それはありうることですね。      われわれもまた、反逆者でありうるのだ。(?反逆者であることが      できるのだ)      cf. 〜反逆者になれるのだ。      学生の模範たりうる(模範となりうる)教師であれ、なんて無茶だ。

25.4.6 V−かねる

 動詞の中立形に接続します。いろいろな事情のために「V−できない、困難 だ」という否定的意味を表します。「たとえそうしたいと思っても」というよ うな状況を想像させます。「わけにはいかない」と近い表現です。かなり硬い、 改まった表現です。敬語とともに使うことができます。「そうするべきなのか もしれないけれども」といった、相手に配慮した言い方ですが、「できない」 ということはかなりはっきり言う表現です。      今回の処分は、私としては納得しかねます。      そのことは私の口からは申しかねます。      悲惨な状況を知って、すぐには立ち去りかねた。   「見かねて・・・する」という言い方もよく使われます。     

25.5 自発 

  
                    「自発」というのは、「あることが、自然に、ひとりでに起こる」というよ うな意味合いを表わす言い方に付けられた名前です。「自発的に」起こる、と いうことでしょう。具体的に、自発とされる表現の範囲は、学者によってかな り違うようです。ここでは比較的狭くし、それ以外のものは「自発的意味をも つ表現」としておきます。   では、具体的な例をいくつか。      学生時代のことが、懐かしく思い出されます。      (私には)カバンがいつもより重く感じられた。       あのときの失敗がつくづく悔やまれる。      私の考えでは、その必要はないと思われます。(私には〜)  これらの動詞の形は、みな受身形と同じです。そして、動詞の意味はみな精 神的活動を表わすものです。主体は、基本的には話し手です。省略されること が多いのですが、示される場合には「私は」「私には」の形になります。最後 の例のように「私の考えでは」などの形で主体を示すこともあります。  自分の心の動き、感覚を自分のものとして、責任をもって表現するのではな く、自分の気持ちとはかかわりなく、自然にそうなってしまうのだ、という意 味合いを持たせる表現です。元の動詞を使った文と比較してみて下さい。      学生時代のことを懐かしく思い出します。      (私は)カバンをいつもより重く感じた。      あのときの失敗をつくづく悔やむ。      私はその必要はないと思います。  どれも他動詞で、「Nを」あるいは「文+と」をとります。自発表現ではそ の「Nを」が「Nが」になり、元の主体の「Nが/は」が「Nには/は」にな ったりします。可能と同じように、その作用の持ち主が「Nに」で表されるわ けです。  疑問文で聞き手が主体になれることは、感情形容詞などと同じですが、あま り使われません。      その瞬間、体が軽く感じられたんじゃありませんか。  三人称(彼・彼女など)が主体になる文は、小説などの登場人物に関する描 写としては使われます。      彼には、カバンがいつもより重く感じられた。      はっきり批判することは、彼の性格からは少々ためらわれたのだ。  次に、「自発的な意味を持つ表現」を見てみます。ある事柄を、何らかの人 為的な・意志的な行為の結果、あるいは何らかの原因によって起こるものと考 えず、自然にそうなった、ととらえる表現です。他動詞と対をなす自動詞のな かに、自発的な意味をもつものがあります。      昨夜の火事で、家が十軒焼けた      ガラスが割れる(音がする)      ボタンがとれそうだよ      歯が抜けた      沖に白帆が見える          (以上 寺村秀夫例)  それらの自動詞は、それぞれ対応する他動詞「焼く、割る、とる、抜く、見 る」の語幹に「−eru」を付けた形になっていて、派生形と見なすこともで きるものです。これらも「自発」とする考えもありますが、ここでは、すでに 見たような受身形と同じ形の精神的な活動の意味の動詞だけに「自発」の意味 を認めることにしておきます。  自動詞の中には、このような自発的な意味を持つもの、可能表現に近いもの、 自然現象を表すもの、そして意志的な動作を表すものなど、さまざまな意味合 いの広がりがあることになります。

25.6 ボイスと自・他動詞との関係

 それぞれのところでちょっと触れたように、ボイスの各形式は自動詞・他動 詞と意味用法が密接に関連しています。ここで少しそれを見てみましょう。    

25.6.1 受身・可能・自発と自動詞

[受身]

 他動詞の受身と、それに対応する自動詞は、かなり近い意味を表します。      会議は1時から始まった。      会議は1時から始められた。     風で木が倒れた。      風で木が倒された。      彼は面接試験で落ちた。      彼は面接試験で落とされた。      彼の努力によって、古くからの慣習が大きく変わった。      彼の努力によって、古くからの慣習が大きく変えられた。  描写している現象は同じですが、自動詞のほうは、その現象そのものを表し、 受身文はそれを起こした行為者・原因の存在を示す効果があります。最初の例 は、受身のほうも行為者を明示しない効果がありますが、明示しなくともその 存在は示されているわけです。それに対して自動詞のほうは、「会議」それ自 体の動きとして「始まる」ということが起こった、という表現です。

[可能] 

他動詞の可能形と自動詞の一部も、同じような状況を表すことができます。      どうやっても曲げられなかった。      どうやっても曲がらなかった。      何とか全部かばんに入れられそうだ。      何とか全部かばんに入りそうだ。  人の努力によって実現の可能性が出ているというとらえ方と、それをその物 自体の状態変化の可能性としてとらえる表現との違いです。  よく問題になるのは、「見える・見られる」「聞こえる・聞ける」という二 組の動詞です。「見える・聞こえる」を可能形とする本もありますが、やはり 自動詞としておくほうがいいでしょう。もちろん「見られる・聞ける」は「見 る・聞く」の可能形です。 前の建物がじゃまで、満月が見えない。(物理的に)      猫は暗いところでもよく目が見える。(生理的に)      衛星放送でシドニーのオリンピックが見られる。(ある方法で)      このような現象は、地球上のどこでも見られる。(条件があえば)      教壇が遠くて、声がよく聞こえない。(物理的に)      百歳になったが、まだよく耳が聞こえる。(生理的に)      このラジオならイギリスのBBCが聞けます。(ある方法で)      本当の名人の落語が聞けなくなってしまった。(条件がない)  この使い分けは物理的・生理的なら自動詞、ある条件や方法次第でなら可能 形、となります。  「売れる」という動詞は、他動詞「売る」の可能形とも、一つの自動詞とも 考えられます。 今、この本がよく売れています。      (?この本をよく売ることができる) という場合は、自動詞ですが、      彼は10台しか車が売れなかった。      彼は10台しか売ることができなかった。 では「売る」の可能形です。次の例では微妙です。      車は10台しか売れなかった。  二つの意味にとれます。自然に「売れた」か、努力して「売った」か、という違いです。

[自発]     

 この本では自発の表現を精神的な活動の動詞に限ったので、それらは自他の 対応のある動詞ではありませんから、比較される自動詞はありません。むしろ、 もともとの他動詞表現との微妙な意味の違いが問題となります。  「自発」のところで、自発的な意味を持つ動詞として、「-eru」の語尾を持 つ自動詞のことを述べましたが、「-aru」の語尾を持つものにも、同じような 自発的な意味を持つものがあります。      傷口がふさがる      とげが刺さっている      指がはさまってしまった      

25.6.2 使役と他動詞

 使役は自他の対応のある他動詞と近い表現です。      子どもたちを家に帰らせた。      子どもたちを家に帰した。      軍隊を前に進ませた。      軍隊を前に進めた。  使役のほうは、多少なりとも「Nを」の名詞自身の行動という意味合いが感 じられます。他動詞の「Nを」は行為を受けるだけの対象です。      子どもを台の上に立たせた。     ×子どもを台の上に立てた。     ×棒を台の上に立たせた。 棒を台の上に立てた。      見張りを立てた。 「立たせる」は動作の主体の意志が必要です。逆に、人に対して「立てる」は 使えませんが、「見張り」の例では可能で、なかなか微妙です。  「着る:着せる」は自他の対応ではありませんが、使役形との使い分けがあ る例です。「見る:見せる」も同様です。 子どもに自分で服を着させた。      子どもに服を着せた。      書類を勝手に見させておいた。      間違って人に見せてしまった。

25.7 V−てあげる/くれる/もらう

   

25.7.1 「恩恵」の授受

 前に、「やりもらい動詞」として「あげる・くれる・もらう」などの用法を 説明しました。(→ 4.4.2)ここでは、それらの動詞が補助動詞として他の動 詞のテ形に接続した場合の用法について考えてみましょう。前の説明から類推 できる部分もありますが、だいたい同じだと思ってしまいますと、かえって誤 りを招くところもありますので、注意が必要です。           私はタンさんに日本語を教えてあげました。      タンさんは私に中国語を教えてくれました。      私はタンさんに中国語を教えてもらいました。  また、この表現は日常の生活の中で非常によく使われるものですし、日本的 な「恩恵」の観念がはっきりと表され、いわゆる「日本的なものの考え方」を よく示すと言われる文型でもあります。  基本的なやりもらい動詞の型は次のようにまとめることができます。     [人が][人に][物を] やる/あげる/さしあげる     [人が][人に][物を] くれる/くださる(主に「私に」)     [人が][人に/から][物を] もらう/いただく  それに対して、「V−て」のついた「やりもらい複合述語」の文型はこうな ります。     [人が] V−て やる/あげる/さしあげる     [人が] V−て くれる/くださる(私に)     [人が][人に]V−て もらう/いただく  「V−てもらう」だけに「人に」があることに注意しておいてください。  次に、その意味ですが、上に出した基本的な例文で考えてみましょう。これ らの場合、何を「あげ」たり「もらっ」たりするのでしょうか。単なる「あげ る」が「物をあげる」のに対して、「V−てあげる」は、「V」の示す動作を 誰かのためにすること、言い換えると、相手のために何かをするというその動 作を「あげる」こと、堅苦しい言い方をすれば「恩恵の授受」を示すのが基本 です。上の例で言うと、「私」が「私」が「タンさんに日本語を教える」とい うことをタンさんのためにする、ということを表しています。「V−てくれる」 はもちろん「タンさん」が「私」のために、「V−てもらう」はその同じこと を「私」を主体として表します。  「やりもらい動詞」に関する人称の制限は、補助動詞となっても同じです。 たとえば、次のような文は不自然です。     ×タンさんは私に中国語を教えてあげました。     ×タンさんは私に日本語を教えてもらいました。     ?タンさんはあなたに日本語を教えてもらいましたか。  これらの制限については、「4.4.2 やりもらい動詞」をもう一度見てくださ い。  日常の会話の中では、「誰が誰に」ということを省略することが多く、学習 者にとって非常に理解が難しくなります。やりもらいの表現は、「あげる・く れる・もらう」の使用によってその恩恵の方向が示され、つまり「誰が誰のた めに」ということが言わなくてもわかるので、一般の動詞以上に名詞が省略さ れやすくなります。本動詞自体がやりもらい動詞で、それにさらに補助動詞と してこれらの表現が接続すると、非常に込み入ったことになります。   1 A:あれ、かってくれた? (BがAのために)     B:ああ、買ったよ。   2 A:あれ、買ってくれた? (誰かがBのために)     B:ああ、買ってもらったよ。 (Bが誰かに) 3 A:あなたの絵、買ってもらったの? (Bが誰かに)     B:買ってもらったんじゃない。売ってやったんだ。(Bが誰かに) 4 A:あたし、行けないから、これ、あげてくれる?     B:いいよ。(BがAのためにCに) 5 A:これ、もらってくれる? (BがAのために、Aからもらう)     B:そうね。じゃあ、かわりにこれをもらってもらおうかな。       (BがAに「てもらう」、AがBからもらう) 6 A:ふつつかな娘ですが、どうぞもらってやって下さい。 (誰かがAのために「娘」をもらう、それをAが頼む)

[目上に対する制限]

 話し手自身が「恩恵の与え手」となる場合は注意が必要です。このことは 「4.4.2」でも述べたことですが、話し手が目上の人に対して「V−てあげる/ さしあげる」を使うと失礼になります。自分が恩恵を与える立場、つまり心理 的に上位者になってしまうからです。  ?先生、荷物を持ってあげます。(荷物をお持ちします) ?社長、お手伝いして差し上げましょう。

[恩恵の受け手]

 その恩恵の「受け手」の表わし方は様々です。初めの例は分かりやすい例で、 「人に英語を教える」のですから、その「人」が恩恵の受け手になります。つ まり、「V−てあげる・くれる」の場合は、「に」で示されている「タンさん」 「私」で、「V−てもらう」の場合は「私」です。  これはちょうど「物をあげる・くれる・もらう」の文で、物の受け取り手と なる人と同じです。  では、次の例ではどうでしょうか。      弟の宿題を手伝ってやりました。      おじいさんの荷物を持ってあげました。  ここでは、「Nの」の形で表わされています。      試験のとき、友達を助けてあげました。      その時、親切な人が私達を駅まで連れていってくれました。    これらの例では「Nを」になっています。      病室は少し暑かったので、窓を開けてあげました。そして、テレビ      をつけてあげました。  この場合は省略されていますが、もし補うとすれば、「病人のために」でし ょう。上の「教える」の例でも、「タンさんが私のために、私の子供に教える」 という場合を考えると、      タンさんが私の子供に英語を教えてくれました。 となって、恩恵の受け手は「Nの」で示されている「私」にもなります。  以上のように、「恩恵の受け手」の示し方はなかなかやっかいですが、文脈 を考えれば分かるはずです。  ある日本語教科書には、次のような文型が書かれていますが、この「N2に」 は常にあるわけではありません。ですから、文型としてこのように書いてしま うのは正しくありません。      N1が N2に V−て あげる      N1が N2に V−て くれる (N2は「私」など)  「あげる」が述語である場合は「Nが Nに Nを あげる」でいいのですが、 「V−てあげる」の場合は、「Nに」があるとは限りません。上で見たように さまざまな形で「恩恵の受け手」が示されます。「V−てくれる」の場合も同 様です。

[「V−てもらう」の「Nに」]

 前に文型の形を並べたとき、「V−てもらう」だけは「人に」が必要でした。 この「人に」は受け手ではなくて「恩恵の与え手」です。行われる動作の主体 の「Nが」が、ちょうど受身文のように、「Nに」として表されるのです。  「V−てもらう」の「Nが」が「恩恵の受け手」になり、実際に何かをする 人が「Nに」で表されるのです。この点で「V−てあげる/くれる」とは反対 です。  「人から」で言える場合もあります。      あの人から教えていただきました。      AさんからBさんに伝えてもらいました。      父(の方)から相手方に送ってもらいました。  これらの例は、「V−て」の動詞が「私に教える」「Bさんに伝える」「相 手方に送る」のように、相手の「Nに」を取ることが特徴です。これが、「人 から」はだめで必ず「人に」でなければいけないとすると、      AさんにBさんに伝えてもらいました。 のようになってしまい、わかりにくくなるので、「人から」が使える必要があ ります。

[受身・使役との関係]

たとえば、ある人が列車の中で、窓際に座っている妻に「窓を閉める」よう に言い、その妻がそうした場合、「妻に窓を閉めさせた」のか「妻に窓を閉め てもらった」のかは微妙です。その夫婦の力関係に関する知識が必要です。  また、夫の言葉が、      窓を閉めてくれ。      窓を閉めてくれないか。      窓を閉めろよ。      あの、すまないけど、窓をちょっと・・・ などのどれだったのかということも関係します。  また、窓を開けたままにしておきたかったのに「妻が窓を閉めた」場合には、 「妻に窓を閉められた」という「迷惑の受身」が使えます。  別の例で言うと、名人の落語家は「客を笑わせる」のが上手ですが、会社の 社長が社内の宴会の隠し芸として一席やれば、「社員に笑わせる」という強制 の使役か、「社員は(無理に)笑わせられる」ことになります。新米の下手な落 語家があちこちトチッて、「通の客に笑われる」かもしれませんし、同情され て「笑ってもらう」こともあるかもしれません。  このように、第三者から見れば、ある動作の、その動き自体は同じに見える のですが、その裏にある意味合いはずいぶん違ったものがあり、それを表し分 けるのがこれらの表現です。    

25.7.2 「恩恵」以外の意味

 ただし、これらの形式が「恩恵」の意味を離れて使われる場合があります。 「V−てやる」は、相手に対する敵意のある行為に付ける場合があります。      殺してやる!      あいつ、いつかとっちめてやろう。      お、そうきたか。よーし、受けてやろうじゃないの。(碁・将棋)  「V−てあげる」ではそのような意味になりにくくなります。丁寧さが加わ るからでしょう。      殺してあげようか。  「V−てくれる」は「実現の期待」という意味合いのことがよくあります。      雨でも降ってくれないかなあ。      この計画がうまくいってくれれば、問題解決だ。 次の例は、現に「ちゃんとやって」いないときには、非難の意味にもなります。      もうちょっとちゃんとやってくれないかなあ。  「V−てもらう」も、その人の行動の実現を期待する意味になります。      まあ、今回は彼に泣いてもらうさ。      ああ結構だ。やってもらおうじゃないか。(反語的) この例で、相手が何かを「やる」のは、話し手にとって好ましいことではない のですが、それをあえて「やってもらう」(自分のために実現を期待)と表現し ています。(「V−(よ)うじゃないか/の」については「32.勧誘・意志表現」 を見て下さい)  「V−てもらう/いただく」に希望の「−たい」を付けた「V−てもらいた い/ていただきたい」の形は、聞き手に行動を要求する立場の話し手が使うと、 かなり強い要請になります。      明日、この問題を話し合ってもらいたい。(上司から部下に)      本署までお出でいただきたい。(警察から)

25.7.3 V−させてあげる/くれる/もらう

 使役表現がこの授受表現と結び付いて、次のような複合表現を作ります。      弟に私のマイコンを使わせてあげました。      母に頼んで大学へ行かせてもらいました。      私達にも食べさせてくださいました。      先生の論文を引用させていただきました。  はっきりと「使役」の意味があるものから、相手の気持を配慮して、ぐらい の意味のものまで様々です。  最近「V−させていただく」が濫用されていて、好ましくないという批判が あります。ただ単に      ただいまから委員会をはじめます。 と言えばいいところで、次のように言う必要はないということです。      ただいまから委員会を始めさせていただきます。  また、本来の「使役」の意味が全然ない場合、例えば、      粗品を送らせていただきました。 などでは、立派な謙譲表現があるのだから、次のように言うべきでしょう。      粗品をお送り致しました。 これは「29.敬語」で扱います。

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参考文献 寺村秀夫1982「受動態」『日本語のシンタクスと意味機戮ろしお出版 寺村秀夫1982「使役態」『日本語のシンタクスと意味機戮ろしお出版 寺村秀夫1982「可能態」『日本語のシンタクスと意味機戮ろしお出版 寺村秀夫1982「動詞の自他−語彙的態の類型」『日本語のシンタクスと意味機戮ろしお出版 寺村秀夫1982「まとめ」『日本語のシンタクスと意味機戮ろしお出版 村木新次郎1991『日本語動詞の諸相』ひつじ書房 柴谷方良2000「ヴォイス」『文の骨格』岩波書店 久野すすむ(日章)1986「受身文の意味−黒田説の再批判−」『日本語学』86.2明治書院 佐藤・仁科1997「工学系学術論文にみる「と考えられる」の機能」『日本語教育』93 佐藤琢三「日本語のヴォイスの体系とプロトタイプ」不明・紀要 鈴木重幸1980「動詞の「たちば」をめぐって」『教育国語』60むぎ書房 鈴木重幸1987「『ことばの科学機拌湿紂佐藤論文によせて」『教育国語』90むぎ書房 砂川有里子1987「チャレンジコーナー」『言語』87.7大修館 たかはしたろう「たちば(Voice)のとらえかたについて」 田中真理・舘岡洋子1992「構文と意味の面から見た「受身」と「〜てもらう」の使い分け−「迷惑・被害の受身」の考察を通して」『ICU日本語教育センター紀要』2国際基督教大学 野田尚史「日本語の受動化と使役化の対称性」 又平恵美子2001「「イチゴが売っている」という表現」『筑波日本語研究』6筑波大学文芸・言語研究科 大曽美恵子1983「授動詞文とニ名詞句」 『日本語教育』50号 堀口純子1987「「〜テクレル」「〜テモラウ」の互換性とムード的意味」『日本語学』1987.5明治書院 守屋三千代「必須成分としての授受形式」不明・紀要 山田敏弘1996「日本語の参与者追跡システムについて(1)−授受表現を中心として−」『現代日本語研究』3大阪大学 山田敏弘1997「「テイル」と「ベネファクティブ」」『日本語教育』92 山田敏弘1998「日本語の参与者追跡システムについて(3)−連体修飾節のベネファクティブを中心に」『現代日本語研究』5大阪大学 山田敏弘1999「テモラウ受益文の働きかけ性をめぐって」『阪大日本語研究』11大阪大学 渡辺裕司1993「授受表現における授受の方向性供廖愿豕外国語大学留学生日本語教育センター論集』19 青木ひろみ1997「自動詞における《可能》の表現形式と意味−コントロールの概念と主体の意志性−」『日本語教育』93 奥田靖雄1986「現実・可能・必然(上)」『ことばの科学1』むぎ書房 金子尚一1981「能力可能と認識可能をめぐって−非情物主語ということ−」『教育国語』65むぎ書房 小矢野哲夫「現代日本語可能表現の意味と用法(機法 渋谷勝己1995「デキルと可能動詞」宮島他編『類義上』くろしお出版 江頭由美1996「もの対象語のサセル動詞文について」『日本研究教育年報』1996東京外国語大学 早津恵美子1991「所有者主語の使役について」『日本語学科年報』13東京外国語大学 宮地裕1969「せる・させる−使役<現代語>」『助詞・助動詞詳説』 森田良行使役表現における「を」「に」」 吉川武時 「日本語とタイ語の使役表現をめぐる調査の報告』『日本語学校論集』東京外国語大学 小嶋栄子1993「使役うけみ文について−その意味と用法−」『日本語学科年報』15東京外国語大学   安達太郎1995「思エルと思ワレル」宮島他編『類義上』くろしお出版 植田瑞子1998「「自発」表現の一考察−自発文の二系列」『日本語教育』96 杉本和之1988「現代語における「自発」の位相」『日本語教育』66 寺村秀夫1982「自発態」『日本語のシンタクスと意味機戮ろしお出版 浅野裕子1996「「と思われる」にみる日英の語用論的原則」『日本語教育』88 張麟声1997「受動文の分類について」『現代日本語研究』4大阪大学 丁意祥1997「受け取り・取り外し動詞から形成される受身文について」『現代日本語研究』4大阪大学 權奇洙1991「受身文の動作主マーカーについての一考察−主に「に・によって・から」を中心に−」『東北大学文学部日本語学科論集』第一号 天野みどり2001「無生物主語のニ受動文−意味的関係の想定が必要な文−」『国語学』52巻2号 小川誉子美2000「作用者格無表示受身文に関する考察」『日本語教育』103 工藤真由美1990「現代日本語の受動文」『ことばの科学4』 むぎ書房 小島栄子1996「「もちぬしのうけみ」とよばれるうけみ文について」『日本研究教育年報』1996東京外国語大学 柴谷方良1997「「迷惑受身」の意味論『日本語文法 体系と方法』ひつじ書房 杉本武2000「日本語の所有者受動文と大主語構文について」『文藝言語研究言語篇』37筑波大学 砂川有里子「<に受身文>と<によって受身文>」 谷守正寛2000「間接受身文に対応する文についての一考察」『日本語教育』107 張麟声1995「ニとカラとニヨッテ」宮島他編『類義上』くろしお出版 張麟声1998「受動文における非典型的動作主につく動作主マーカーについて」『世界の日本語教育』8 張麟声1996「非情ガ(ハ)+有情ニ+サレル」型受身文について」『現代日本語研究』3大阪大学 張麟声1998「現代日本語受動文の構文的タイプ」『現代日本語研究』5大阪大学 丁意祥1997「間接受身に関する一考察」『日本語教育』93 丁意祥1995「いわゆる<持ち主の受身>について−非分離性関係の受身について」『現代日本語研究』2大阪大学 早津恵美子1990「有対他動詞の受身表現について−無対他動詞の受身表現との比較を中心に」『日本語学』5月号明治書院 細川由起子「日本語の受身文における動作主のマーカーについて」『国語学』144号 光信仁美2001「直接対象受動文に関する一考察」『日本研究教育年報』5東京外国語大学 村上三寿1997「うけみ構造の文の意味的なタイプ」『ことばの科学8』むぎ書房 山内博之1997「日本語の受身文における「持ち主の受身」の位置づけについて」『日本語教育』92 山橋幸子2000「「てくれる」の意味機能−「てあげる」との対比において−」『日本語教育』103 王恬1990「「〜てもらう」文の意味と統語的特徴−「〜(さ)せる」文との比較を兼ねて−」『日本語学科年報』12東京外国語大学 許明子2000「テモラウ文と受身文の関係について」『日本語教育』105 天野みどり1991「経験的間接関与表現−構文間の意味的密接性の違い−」『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版